障害学(しょうがいがく、英語: Disability studies)は、「障害」やその社会的観念について、障害を有する当事者の視点から研究する学問分野である[1]。学術としては1982年にアーヴィング・ケネス・ゾラらによってアメリカ合衆国でアメリカ障害学会が設立され、その後イギリスでもマイケル・オリバーらを中心として大きく発展した[2]。
障害学の理論的核心は「障害の社会モデル」と呼ばれる認識枠組みである[3]。障害の社会モデルは、「障害」を個人の属性ではなく、社会の側の障壁として捉えるものである。障害の社会モデルでは、身体的(精神的・知的を含む)障害を「インペアメント(impairment)」、社会によって作られた障壁や差別を「ディスアビリティ(disability)」と呼び、両者を明確に区別している[4]。従来の「障害の個人モデル(医学モデル)」は、障害者が直面する問題の根本原因を個人のインペアメントに求めており、障害を個人の悲劇として捉え、その解決をインペアメントの除去に見出していた。これに対して社会モデルは、障害者が直面する問題の原因を、社会がマイノリティとしての障害者を前提に設計されていないことに求め、障害はインペアメントそのものから生じるのではなく、社会的環境との相互作用の中で生み出されるものと考える[5]。
「社会モデル」は障害学における主要な概念として広く共有されているが、その具体的内容については、さまざまな理論や解釈、議論が存在する[3]。障害の社会モデルの理論は、イギリスとアメリカそれぞれの社会的・学問的背景に基づき、両国で独自の発展を遂げている。一般に、マイケル・オリバーに代表されるイギリス社会モデルと、アーヴィング・ゾラに代表されるアメリカ社会モデルに大別される[3]。障害学は原則としてインペアメントとディスアビリティを区別し、主に後者を分析対象とするが、この区別の厳密性はイギリス障害学とアメリカ障害学とで異なる[6]。
障害学には当事者学としての側面があり、特にイギリスの障害学においてはそれが顕著である[7]。非障害者の参加が多いアメリカにおいても、「障害あるいは病気をもつ者の当事者学」という側面は障害学の重要な側面となっている[7]。障害の研究は、長らく医療・教育・福祉の専門家によって主導されてきた[1]。そこでは、障害者を「弱者」や「無力な存在」として捉え、専門家が彼らの「幸福」を支えるべきであるという姿勢が、支援実践や研究に強く反映されていた[1]。こうした障害研究に対し、1970年代ごろから障害のある人(当事者)自身が「障害者としての生き方」を主張するようになり、今日では「私たち抜きに私たちのことを決めるな(Nothing about us without us)」という障害者運動の主張に結実するとともに、こうした当事者の主張が障害学へ発展した[1]。「障害の社会モデル」や「障害の文化モデル(障害文化)」はいずれも、障害学が従来の障害研究とは異なる独自の障害観として提示したものである[1]。「障害文化」は、「個人の心身の特性を人間の多様な個性の一つであり、人類文化の構成要素とみなす立場[1]」ないし「障害者間に何らかの文化的な固有性や共通性を抽出したり、あるいは他の文化との差異を見出し、文化的な独自性を主張することで、障害文化を規定する立場[8]」であり、障害のある人々の間で共有される文化の固有性や価値観の独自性を強調するものとなる可能性がある[9]。他方で障害学は、現代社会学における社会構築主義(社会的世界を個人の生物学的属性ではなく社会的文脈によって説明しようとする立場)的な立場を広く採用してもいる[10]。アーヴィング・ゾラらが提唱した「障害の普遍性モデル[11]」はその代表的な例であり、「障害」の範囲を限定的に捉えるのではなく、すべての人が何らかの形で障害を経験しうるとする立場を示す。障害学は学問的研究分野としては比較的新しく[12]理論も障害当事者個々人の経験が基盤となったものであり、社会モデルのあり方ないし「障害文化」や「障害の普遍化」等の諸概念については論争も存在する。
障害者運動と障害学とのあいだには密接な関係が存在するが、「学術研究」と「政治運動」との区別をめぐっては、特にイギリス障害学において長年論争が続いてきた[13]。障害学における当事者性の課題は、障害学の担い手を拡大することによって学術水準の向上を図ると同時に、「障害者にとってのアクセス可能性」および「障害者が研究の中で埋没しないこと」を確保するという課題へと発展している[14]。障害学が一定の学術的水準を満たしつつ、障害当事者にとっても身近な内容であり続けることは、学術的評価と当事者による評価という二重の基準にさらされることを意味する[14]。英米および日本の障害学においては、障害当事者にとってアクセス可能な研究成果の発信を目的とした工夫と実践が継続的に行われている。自身も視覚障害をもつ障害学研究者の倉本智明は、「障害学とは自己解放のための学問」としたうえで、障害学を担う主体について「障害学というのは、障害/健常にかかわる問題を、単なる知的好奇心の対象としてではなく、自分自身の問題として受け止め悩むこと、時に楽しむことのできる人すべてのものです[15]」と述べている[16]。
障害学の登場以前から障害研究の中心を担ってきたリハビリテーション学や社会福祉学と、障害学との関係性については、さまざまな見方が存在する[17]。世界保健機関(WHO)が2001年に制定した「国際生活機能分類(ICF)」においては医学モデルと社会モデルの統合が試みられており、ICFに基づくリハビリテーション学の立場からは、障害学がリハビリテーション学や障害者福祉学といった既存の障害研究と対立しない、あるいはそれらに包摂され得るとみなされる可能性がある[18]。しかし、ICFの前身である「国際障害分類(ICIDH)」の改訂過程においては、WHOの研究者と障害学者との間で多くの論争が交わされており[19]、実際には両者は対立しうる。障害学は比較的新しい学問分野であり、その理論的枠組みの形成に際しては、他の学問領域から多くの用語や概念を借用してきた。しかし、障害学においてこれらの用語が用いられる場合、その意味内容や理論的前提はしばしば独自に再定義され、特定の文脈に限定されることがある[20]。このため、他分野における同一用語との対応関係には注意を要する。
「障害」と「障害者」の定義
編集「障害」についての最も一般的で科学的な定義として利用されているのは、WHOによって2001年に制定された「国際生活機能分類(ICF)」である[21]。ICFによる障害の定義は、心身機能レベルの機能障害、日常生活動作レベルの活動制限、社会生活レベルの参加制約という3つの次元に分解して捉えるものである。ICFは、障害の程度を国際的に標準化された方法で評価するための指標として用いられるが、一方で「障害者」を定義することは目的としていない[21]。すなわち、ICFは「障害の種類と程度」を測定することはできても、「どこまでが障害者で、どこからが非障害者であるか」という線引きを示すものではない[21]。このため、「障害者」とは法制度的・政治的に定義される存在であるとともに、障害のある人々自身が「障害者」を名乗り、社会がその呼称を承認するという社会的過程によって成立する。よって「障害者」は、法律によって政治的に定義される、もしくは障害のある人たち自身が「障害者」を名乗り、社会がこれを承認する[21]。
日本における行政上の「障害者」の定義
編集日本においては、法令上の「障害」の定義に基づき、「障害者」が行政的に認定されている。行政上、「障害者」とは障害者手帳の交付を受けた者(または同等の障害を有すると認められる者)を指す。障害者手帳には、身体障害者福祉手帳(身体障害者福祉法に基づく)、療育手帳(主として知的障害児者を対象に都道府県および政令指定都市が交付する)、および精神障害者保健福祉手帳(精神保健福祉法に基づく)の3種類がある。これらの手帳はいずれも、所定の法的基準に該当する場合にのみ交付されるため、障害を有していても制度上の基準から外れる者が相当数存在する。したがって、行政上の「障害者」の定義は、「障害者」についての最も狭い定義と考えてよい[22]。
「障害者」の定義における客観的次元と主観的次元
編集行政による「障害者」の定義においては、慢性腎臓病や心臓病など慢性疾患の一部が身体障害者とされる一方で、「難病」と呼ばれる難治性疾患の多くが障害者とはみなされないという矛盾がある[23]。また「障害者」という概念には、自分自身が「障害者」であると思うか否かという自己概念が深く関係している。例えば、アメリカにはがん回復者や高度肥満者の中に自らを「障害者」と位置づける人々が存在するほか、多発性硬化症患者は欧米では障害者運動に積極的に関与する傾向があるのに対し、日本では自身を「障害者」とみなさない人が多いと指摘されている[23]。
このように「障害者」の定義には、医学的または行政的に把握される「障害」の有無という客観的次元と、本人が自己を「障害者」と認識するか否かという主観的次元(当事者意識)の両方が関係しているといえる[23]。
社会モデルの基本的考え方
編集障害者権利条約でも重視される概念の一つが、「個人モデル」と「社会モデル」である[24]。これらは、障害の原因をどこに位置づけるかという点で大きく異なる。
「障害」という言葉で言い表されるものの中には、インペアメント(impairment)とディスアビリティ(disability)の2つの意味が含まれている[25]。インペアメントは「歩けない」「見えない」といった個人の側の事情を表した障害を、ディスアビリティは「電車に乗れない」「就職できない」といった社会との関係の中で生まれてくる障害を表している[25]。
「障害の個人モデル/医学モデル」は、「障害」を個人の身体や心の機能の不足として捉え、その克服を本人の努力・治療・工夫によって行うべきものとする立場である。これに対して「障害の社会モデル」は、「障害」を社会の側の構造や制度、環境に起因するものとして捉え、社会の側が改善や改革によって解決すべきであると考える[24][26]。
この違いは、身近な例で理解することができる。たとえば、車椅子を利用する人が駅の改札を通り、プラットホームへと上る階段の前で立ち止まっている場面を想像してみる。エレベーターなどの設備がない場合、多くの人は「この人は車椅子だからプラットホームに上がれない」と考えがちである。これは障害を個人の側に見いだす「個人モデル」の発想である[24][26]。
しかし、同じ状況を別の角度から見れば、問題は駅の設備にあるともいえる[24][26]。仮に改札とプラットホームの間が高さ5メートルの絶壁になっていたら、多くの人が「なんという不便な駅だ」と駅の構造のほうを問題視するであろうことが予想される[24]。ここでは障害は個人ではなく社会(環境)の側にある。このように、障害の所在を社会の設計に見いだすのが「社会モデル」である[24][27]。
思考実験として、もしも人間に翼があり、自由に飛んでプラットホームまで移動できる世界を考えてみると、階段という構造物は不要になる[24]。階段は、実際には「二足歩行する人間」に対する配慮として存在しているのである[24][26]。したがって、階段しかない駅では、歩行者には配慮があるが、車椅子使用者には配慮が欠けていることになる[24]。
社会学者の石川准は、このような状況を「配慮の不平等」と呼んでいる[24][28]。すなわち、社会は「健常者」には多数の配慮を行っており、それを当然のこととしている一方で、障害者には十分な配慮がなされていないという不均衡が存在する[24][28]。もし階段のほかにエレベーターがあれば、歩行者には二つの選択肢(階段とエレベーター)があり、車いす使用者も同様に移動の自由を得ることができる。
社会モデルがめざすのは、このような「健常者中心」に作られた社会構造を改め、すべての人が等しく利用・参加できる環境を整えることである[24]。その前提には、すべての人に移動や社会参加の自由があるという権利意識がある[24]。障害の社会モデルや配慮の不平等の考え方を通して見ると、社会の設計そのものが一部の人に特権を与えていることが明らかになり、問題の所在を個人ではなく社会に求める視点が得られる[24]。
星加良司は、社会モデルの理論的意義を、ディスアビリティの原因を個人ではなく社会に求める認識論的転換に見いだしつつも、そのような社会原因論はディスアビリティの同定に十分な理論的根拠を与えるものではないと批判している[29]。星加は、ディスアビリティが個人の属性や環境のいずれかに単独で帰属するのではなく、両者の関係性において生成されることを指摘している。例えば、駅の階段は、それ自体や車椅子使用者の存在のみから不利益を生じさせるのではなく、車椅子使用者と階段との関係、さらに階段を利用した移動に社会的価値が付与されている状況や、自力で階段を上れる者との比較関係の中で、階段を上れないことが不利益として経験されるのである[29]。よって、ディスアビリティの原因を個人または社会のいずれか一方に帰属させる二元論的把握は妥当ではないとされる[29]。また星加は、従来のディスアビリティ理論がディスアビリティを「不利益」として把握するにとどまり、その固有性や解消の根拠を十分に説明していない点も問題視している[30]。
イギリス障害学とアメリカ障害学
編集障害学は、1960年代後半~1970年代半ばにかけて先進資本主義諸国を中心として同時多発的に勃興した障害者による社会運動を背景に誕生した[31]。とりわけ、アメリカの自立生活運動の実践や、イギリスの隔離に反対する身体障害者連盟(UPIAS)による運動は、健常者中心主義的社会体制を痛烈に批判し、「できなくさせる社会」(DISABLING SOCIETY)の抑圧性を問題化することを通じて直接的に障害学の成立に貢献した[31]。これらの運動は、アメリカのアーヴィング・ケネス・ゾラやイギリスのヴィック・フィンケルシュタインといった研究者の手によって理論的に体系化された[31]。アメリカにおいては、1986年にアメリカ障害学会が設立され、同時にゾラを編集長とする学術誌『季刊障害学 (Disability Studies Quarterly) 』が創刊された。イギリスでは、1970年代にオープン大学において「地域社会における障害者」のコースが開講されたことを契機に、障害学がアカデミズム内部に徐々に浸透し、多くの大学で教育課程として定着していった。1986年には、アカデミズムとしての障害学の振興を目的に、フィンケルシュタインやマイケル・オリバーを主要な編集者とする学術誌『障害、ハンディキャップと社会 (Disability, Handicap & Society) 』(94年に誌名を現在の『障害と社会 (Disability & Society) 』に変更)が創刊された。
今日の障害学は、アメリカの『季刊障害学』とイギリスの『障害と社会』という2つの学術誌を中核として発展している[31]。
イギリスにおける障害学の発展
編集イギリスにおける障害学(Disability Studies)は、1970年代に興った障害者運動を背景に発展した。これらの運動は、「障害」という概念を医療や福祉の専門職から取り戻すことを目指し、障害者自身の経験を基盤とした新しい社会的理解を模索したものである[32]。特に「隔離に反対する身体障害者連盟(UPIAS)」や「障害者解放ネットワーク」といった草の根組織は、障害のある人々にとって「障害とは何か」を再構築するための重要な場となった[32]。
こうした運動から生まれた思想を背景に、ヴィック・フィンケルシュタインやマイケル・オリバーといった障害当事者である研究者は、「障害」を社会構造的な問題として捉え直した。オリバーは、この新しい枠組みを表すために「障害の社会モデル」という用語を提唱した[32]。オリバーによる社会モデルは、UPIASが1976年に行った「障害は本質的に、損傷に基づく社会的排除である」という提案に依拠しており[33]、障害を個人の欠陥ではなく、社会構造の側に存在するバリアの問題として捉えるものである。オリバーが提示した社会モデルは、マルクス主義や唯物論の影響を受けており[34][35]、資本主義社会における生産様式や労働市場の構造が、障害者を労働力から排除していく過程を重視する[36]。なお、オリバーによる社会モデルは社会主義や共産主義への政治的連帯を表明するものではない。オリバーによる社会モデルが「マルクス主義的」と評されるのは、障害者の社会的排除の構造を分析するにあたり、資本主義社会における労働力からの排除を中心的要因として位置づけているためである[37]。
イギリス障害学の言語的特徴として、「障害者」をdisabled peopleと表現することが挙げられる。英語では、障害学の成立以前からこの語が用いられていたが、従来は「できない人々、能力を欠いた人々」という意味合いで理解されていた。イギリスの障害学では、disabled を過去分詞と解して「社会によって能力を奪われた」あるいは「できなくさせられた」という受動的な意味に再定義し、障害を個人の欠陥ではなく社会的な排除の結果として捉える。この再定義は、障害学における社会モデルの理念を象徴するものである[6][注釈 1]。
学問としての障害学の形成もまた、障害当事者の主導によって進められた。1975年には、通信制大学であるオープン大学(en:Open University; OU)の学際的チームによって、イギリスで初めて障害学に関する課程が開設された。この講座の中心人物はフィンケルシュタインであり、初年度には1200人以上が受講した。受講生には専門職やボランティア、障害当事者も多く含まれ、教材開発にも障害者自身が積極的に関わった。この課程は1994年に廃止されるまで2度改訂され、障害者運動と学術の接点を形成した[39]。
1990年代以降、イギリスの総合大学における障害学研究は、従来の医学・心理学・特殊教育・社会福祉といった枠を超えて展開するようになった。特に、リーズ大学社会学・社会政策学科は障害学の主要拠点とされており[40][41][42]、1994年にはコリン・バーンズ(Colin Barnes)の主導により障害学研究ユニット(Disability Research Unit, DRU)が設立された[43]。DRUは、2000年に障害学センター(Centre for Disability Studies; CDS)と改称された[43]。CDSは、障害学に関するインターネット上のディスカッショングループや電子リポジトリを運営し、研究の発展と情報共有に寄与している[43]。
アメリカにおける障害学の発展
編集アメリカにおける障害学は、1960年代以降の公民権運動の影響を強く受けて発展した[34]。アメリカの障害者運動は、人種差別撤廃運動や女性解放運動と並行して展開し、障害者の権利を公民権の問題として位置づけたことが特徴である。すなわち、障害を「社会的差別や偏見によって形成される不平等な関係」として捉え直す試みが行われた。このような発想は、たとえば車椅子利用者がレストランに入店できない問題を、人種を理由に入店を拒否される事例と同様の「差別的態度」として扱うことに現れている。すなわち、障害者差別を人種・性別・宗教などに基づく差別と同列に位置づけ、偏見や排除の是正を求めるという考え方である[44]。このため、アメリカの障害学は、社会的・物理的環境よりもむしろ「社会の偏見的態度」や「スティグマ」を重視する傾向を持つ[45]。
制度的には、1973年リハビリテーション法(Public Law 93-112)、そのなかでも504条の制定が大きな転機となった。アメリカの504条は、連邦資金を受ける教育機関や事業者に対し、障害を理由とする差別を禁止するものであり[46]、障害を持つアメリカ人法(Americans with Disabilities Act of 1990, ADA)へとつながる礎となった[47]。504条の制定過程では、議会スタッフが「雇用主や教育機関の偏見による差別」を問題視しており、建築物等による物理的バリアの除去については軽視されていた一方、社会的態度に焦点を当てていた点が注目される[48]。1973年リハビリテーション法は、それまでのように専門家の裁量によって選別された「個人」を対象に職業リハビリテーションを行う仕組みから転換し、「障害をもつ人々」という集団に対して、平等な権利としてサービス提供を保障する公民権型の施策へと舵を切ったものといえる[49]。たとえば、個別リハビリテーション計画や利用者支援事業においても、障害者の利用者主権が認められることにより、リハビリテーションサービスが実質的には「権利(entitlement)」として提供される側面が生じた[50]。
他方で障害者運動も、当初は障害者の公民権を明示的に主張していたわけではなかったものの、自立生活運動や自立生活サービスの制度化要求を通じて、リハビリテーション・サービスの「権利性」ないし「受給権」を主張していた[49]。これは、1960年代後半に公民権運動家たちの一部が行った福祉権運動(Welfare Rights Movement)と同様の機能を果たすものであり、その意味では障害者自立生活運動も公民権運動の系譜に連なるものであると言える[49]。
研究分野としての障害学の形成には、当事者研究者であるアーヴィング・ケネス・ゾラ、デビッド・ファイファー(David Pfeiffer)、ハーラン・ハーン(Harlan Hahn)などが中心的役割を果たした[51]。このうちゾラは社会学者、ファイファーとハーンは政治学者である[51]。ハーンは公民権運動の経験も持ち、障害者の主要な問題は機能的インペアメントではなく「偏見と差別」であると主張している[52]。アメリカ障害学における「社会モデル」は、イギリス障害学の「社会モデル」とは異なり、インペアメントとディスアビリティを明確に区別しない[53]。むしろ、インペアメントそのものを社会的記号、すなわち「市民権を剥奪される徴」として捉える[45]。アメリカ障害者法(ADA)で「過去に障害歴のある者」や「見なし障害者」が保護対象に含まれるのは、このような障害観に基づくものである[47]。アメリカにおいて「障害者」をpeople with disability(障害のある人)と表現する背景も同様である[47]。
総じて、アメリカの障害学は、公民権運動を起点に発展した「マイノリティとしての障害者」理解に支えられており、社会的偏見の是正と法的権利の保障を重視する点にその特徴がある。他方で、理論的にはイギリスの障害学ほどの統一性はなく[51]、社会学・政治学・リハビリテーション学など多様な学問領域にまたがる学際的研究として展開している。
障害学と障害者運動
編集イギリスの障害学では1990年代に、「非障害研究者」(non-disabled researcher) の参加をめぐる論争が『障害と社会』誌上で展開された[15]。
ロバート・ドレイク(Robert F. Drake)は、障害の社会モデルを共有することを前提として非障害者の参加を認めつつも、「非障害者は障害者を代弁してはならない」「非障害者は当事者運動のなかで主導的立場に立ってはいけない」「非障害者は、障害者施策のもつディスエイブリング(disabling, 無力化)効果について研究してもよいが、障害者についての研究調査をしてはならない」といった制約が課されるべきだとした[54]。そのうえでドレイクは、非障害者にとって正当な役割(legitimate roles for non-disabled people)として、社会に存在するディスエイプリングな側面を研究によって明らかにすること、障害者団体への資金的支援を行うこと、さらに当事者団体の要請に応じて情報提供や支援を行うことの3つを挙げている[54]。
これに対し、フラン・ブランフィールド(Fran Branfield)は、非障害者の存在そのものが障害者に対する支配や抑圧になりうるとして、ドレイクへの反論を寄稿し、障害学における障害当事者研究者の積極的優遇を主張した[55][56]。ブランフィールドは、障害者にとっては非障害者の存在そのものが支配・抑圧・専有であるとして、障害者運動において非障害者が果たすべき役割は「自らが変わることだけ」であると主張した[55][57]。またブランフィールドは、障害学がアカデミズムにおいて制度化・正当化される過程で、その領域が非障害者によって占有・簒奪される危険性があると指摘し、これを防ぐ必要があると論じた[55][57]。
ブランフィールドに対しては、ポール・デュケ(Paul S. Duckett)がさらに再反論を行っている[58]。デュケは、ブランフィールドが前提とする「障害者/非障害者」という二項対立そのものが、障害をめぐる支配的なディスクールを再生産するものであり、結果として抑圧関係を固定化する危険を持つと批判する。また、ブランフィールドによるドレイク批判は、障害者に向けられてきた抑圧的言説を非障害者に反転させるにとどまり、かえって対立的構図を強化していると指摘する。
そのうえでデュケは、「非障害者=抑圧者」「障害者=被抑圧者」という図式について、三点から批判を展開している。第一に、「障害者」と「非障害者」の区分は固定的かつ明確なものではない。精神障害からの回復経験を持つ者や、遺伝性疾患の診断を受けうる者など、両カテゴリーを移動する人々も存在し、多くの人はその中間的な位置に自己を置いているとされる[58][57]。また、「障害者」というカテゴリー自体も内部に多様な差異を含み、単一の集団として実体化することはできないとされる[57]。第二に、「抑圧者」と「被抑圧者」という区別も同様に不安定であるとされる[58]。例えば、パラリンピックにおける知的障害者の排除や、障害の社会モデルが個人のインペアメントを軽視するとして一部の障害者から批判される点が挙げられる[58]。また障害者運動自体も、高齢者や知的障害者の包摂に限界があり、民族的マイノリティや労働者階級の参加も限定的であるとされ、「白人で男性の脊髄損傷者中心の運動」として特徴づけられる場合がある[58]。このように、障害者もまた他の障害者や社会的少数者に対して抑圧的立場を取りうるとデュケは論じる。第三に、障害者への抑圧に対抗するうえで非障害者の関与や支援は現実的に不可欠であるとされる[58]。デュケは、南アフリカのアパルトヘイトに対する闘争において当事者でない人々の連帯が重要であったことを例に挙げ、制度的暴力への抵抗において「当事者であること」を必須条件とする理由はないと反問している。
こうした「研究の自由」論争のきっかけとなったのは、コリン・バーンズ(Colin Barnes)が1996年に同誌に寄稿したエッセイであった[59]。バーンズは、障害研究が障害者の抑圧に加担してきたと障害者当事者らによって批判されてきた歴史を踏まえ、障害当事者や障害者団体が研究者に対して警戒感を抱くのは理解できると述べる[60]。そのうえで、なおも研究者を「独立した存在」であるかのように無条件に語り続ける一部の学者の姿勢を、ナイーブであるか、あるいは誤解を招くものだと批判した[60]。バーンズは、研究者は障害者団体の機関誌などに寄稿するよりも、査読付き学術誌への論文投稿を優先する傾向にあると述べる[60]。すなわち研究者は、障害者当事者からの評価よりも、多くの場合非障害者で構成される同僚研究者からの評価を強く意識しているのである[60]。また、研究資金を提供する地方保健局、自治体の福祉部局、中央政府、福祉財団などは、障害を医療的観点から捉える傾向が強く、研究公募においても、リハビリテーション上の問題解決に資するかどうかが重要な選考基準となる[60]。このように、大学に所属する研究者もまた、外部の利害や権力関係から自由ではありえない[60]。バーンズはそのうえで、研究者は結局のところ、抑圧する側に立つのか、それとも被抑圧者の側に立つのかという立場選択を免れえないと結論づけている[60]。
トム・シェイクスピアは、「研究の自由」という主張が、障害者に対して抑圧的な研究を正当化するための自己弁護として用いられうるというバーンズの指摘には同意している[61]。しかしその一方で、研究に対する外在的な規制や制約が研究の方向性を歪めるというバーンズの議論は、バーンズ自身が批判対象としている実証主義的研究者たちが「研究の自由」を擁護する際の論拠とも共通しており、その点で両者は同じ前提に立っていると批判する[61]。シェイクスピアは、女性学・女性研究の影響を強く受けており、とりわけアン・オークレーの研究実践を重視する[61]。オークレーは、「客観的」「実証主義的」な調査モデルから離れ、調査者と被調査者とのより平等なインタビュー関係を模索したほか、学術論文だけでなく、調査対象者自身にも読める形で研究成果を公表している[61]。シェイクスピアは、こうした研究関係と知識共有のあり方を、自らの障害学研究の手本として挙げている[61]。しかしシェイクスピアは同時に、構築主義の立場を採用し、被調査者の語りや見解もまた脱構築や批判的検討の対象となりうると主張した[61][62]。すなわちシェイクスピアは、研究者は被調査者と対等な関係を築くべきではあるが、被調査者の意見を無批判に受け入れるべきだとはないとした[62]。
さらにシェイクスピアは、障害当事者研究者と障害者運動家とのあいだに存在する緊張関係にも言及している[61]。たとえば、障害学の学術論文は必ずしも読みやすいものばかりではないが、研究者は可能な限りわかりやすい形で研究成果を提示すべきであると同時に、その過程で研究内容の豊かさを過度に単純化し、捨象してはならないと主張する[61]。シェイクスピアはまた、研究が解放的であれ保守的であれ、それ自体が直接的に社会を変えるわけではないと述べる[61]。シェイクスピアは、社会を変える主体はあくまで政治活動であり、知的活動は政治的論争に理論的な支えを与えたり、望ましい社会変化が生じるための条件形成に寄与したりするものであるとする。このような立場からシェイクスピアは、障害学と障害者運動のあいだには一定の分業が必要であると主張している[61]。
日本でも、1970年代の障害者解放運動の中で、障害者と健常者との非対称な関係が問題化された。当時の代表的な団体である「青い芝の会」は、当初は脳性麻痺者を中心とする親睦団体として出発したが、東京久留米園[注釈 2]の入所者ら重度障害者の集団加入を契機として、生活保護に依拠する貧困層の障害者が運動の中核を担うようになった[64]。また、当時の学生運動・市民運動の高揚の影響も受け、1960年代後半から1970年代にかけて政治性を強め、国家権力や健常者中心社会への対抗を掲げる障害者解放運動へと変化していった[65]。「青い芝の会」には、1960年代末以降に新左翼系学生運動の経験者らが多数参加した[66]。彼らは組織運営や抗議行動のノウハウをもたらした一方で、障害者運動を自らの政治闘争に利用し、障害者の主体性を奪う事態が多発したと指摘される[66][67]。こうした経験から、当時の障害者運動には「健全者による (障害者運動の) ひきまわし」に対する批判と警戒が存在した[68]。横塚晃一や楠敏雄らは、労働運動や学生運動との共闘においても、障害者が「弱者救済」の象徴として利用されることへの警戒を表明した[69]。
横塚晃一は、全国障害者解放運動連絡会議結成にあたって執筆された記事「障害者解放運動の現在的視点」において、今まで障害者の多くは主体性を奪われ「自己喪失」の状態に置かれてきたと論じたうえで、障害者の主体性獲得と同時に、健常者側の自己変革も必要であると主張した[70]。健常者は、障害者を排除してきた社会の中で形成された自らの差別意識を自覚し、「闘う障害者との出会い」「日常的な障害者とのふれあい」「障害者組織と共に闘う自分たち健全者の組織活動」を通じて新しい感性を創っていくべきであると、横塚は主張した[71]。
こうした問題意識は、介助関係をめぐる議論にも現れた。当時の重度障害者の地域生活は、学生ボランティアなどによる介助に大きく依存していたが、「青い芝の会」では、介助者と被介助者との間に固定的な上下関係が生まれる危険性が強く意識された[72]。そのため、関西の「青い芝の会」では、介助者・支援者である健常者の顔色ばかりを伺う障害者に対し、「介助者はただの手足と思え、その顔色をうかがったりするな」と警鐘を鳴らす「健全者手足論」が唱えられた[73][72]。「健常者手足論」が唱えられた背景には、1970年代の障害者運動において「闘う障害者」像が理想化されるなかで、障害者同士の序列化や、介助者による当事者への過度な働きかけが問題視されたことも指摘される[74]。「健常者手足論」は、介助者に対しても、障害者の主体性や尊厳が容易に損なわれうることを自覚し、当事者を運動へと駆り立てたり方向づけたりしてはならないと戒める意味を持っていた[74]。杉野昭博は、「健全者によるひきまわし」批判や「健常者手足論」は、前述したイギリス障害学における「研究の自由」論争との共通点を持つと指摘している[68]。
WHOによる障害のモデル
編集前述のとおり、WHOによる「障害」のモデルは、「障害」の定義をすべて包括するものではなく、また障害学の立場と常に一致するわけでもない。しかし、WHOによるモデルは「障害」に関する国際的な基準として広く用いられており、障害をめぐる言説の論理的基盤を形成している点で重要である。そのため、本項目ではまずWHOによるモデルを取り上げる。WHOは1980年に国際障害分類試案(ICIDH)を発表し、2001年にはその全面改訂版である国際生活機能分類(ICF)を発表した。
国際障害分類試案(ICIDH)
編集1980年、WHOは「国際障害分類試案(ICIDH: International Classification of Impairments,Disabilities and Handicaps)」を発表した[75]。国際疾病分類(ICD)は当初、主として診断(diagnoses)を対象としており、疾患の転帰(outcome)や、健康状態の指標(「disability(能力障害)」など)は扱っていなかった[76]。しかし先進国での寿命の延長、慢性疾患や障害を伴う疾患の増加、戦争や災害による障害者の増加という現実と障害者の人権尊重という機運とがあいまって、障害、すなわち「疾患が生活・人生に及ぼす影響」をみる必要があるという意識が高まり[77]、国際疾病分類第9回改訂会議(1975年)において、「機能障害(impairment)」と「障害(handicap)」の分類案1を試行的に公表することを勧告する決議が採択された[76]。
こうした経緯を経て、1980年に『国際障害分類試案』(ICIDH)が出版された。「試案」という名称が示すとおり、本書はあくまで試行的な指針として位置づけられていた[78]。各国および各分野の専門家がさまざまな場面で試験的に使用し、そのメリットやデメリットをWHOに報告することで、将来の改訂や完全版の作成に役立てることが意図されていた[78]。
従来のICDにおいては、疾病の発生過程は「etiology(病因)→ pathology(病理)→ manifestation(発現)」という一連の段階を経るものとしてモデル化されていた[79][80]。この枠組みは、疾病を生物医学的な過程として捉えるものであり、病因から病理学的変化を経て臨床的症状に至るという自然史的理解を前提としている[79]。しかし実際には、疾病は単なる身体的異常にとどまらず、当人の社会的役割や生活上の機能にも影響を及ぼす。疾病による社会的役割の変化が長期化または深刻化した場合、病理的所見とは独立に、援助を必要とする状態が生じることがある[79]。

このような考えのもと、ICIDHにおいては、病気に関連する諸現象を表す系列が拡張され、「disease or disorder(疾患・変調)→ impairment(機能・形態障害)→ disability(能力障害)→ handicap(社会的不利)」という図式が提示された[81][77]。このモデルは、障害を機能・形態障害、能力障害、社会的不利の三つのレベルに区分して捉える「障害の階層性」を提示した点で画期的であった[77]。
本モデルにおいては、これら三段階の間において「機能・形態障害から直接に社会的不利が生じる」経路、いわば一種の「バイパス」が存在することも指摘されている。ICIDH序論によればこれは、たとえば顔面のあざのように能力障害を伴わない形態障害が社会的不利を引き起こす場合を想定したものである[77]。この他たとえば脳性麻痺や脳卒中片麻痺などでの歩容異常(機能障害)が、歩行の実用性には問題がない(能力障害はない)にもかかわらず社会的不利を引き起こす場合など、さまざまな例が考えられる[77]。ICIDHが発表された1980年は国際障害者年(1981年)の前年でもあったため、この新しい障害概念は「国際障害者年世界行動計画」の基本理念にも取り入れられて広く知られるようになり、各方面に大きな影響を与えた[77]。
ICIDHにおけるimpairment(インペアメント, 機能・形態障害)、disability(ディスアビリティ, 能力障害)、handicap(ハンディキャップ, 社会的不利)の定義は以下の通り。なお以下の説明は、厚生省大臣官房統計情報部によるICIDHの仮訳(1984年)に準拠する。
心理的、生理的、解剖的な構造または機能の何らかの喪失又は異常[82]
ある活動を、人間にとって正常と見なされるやり方又は範囲において行う能力の(機能障害の結果起った)なんらかの制限又は欠陥[83]
- ハンディキャップ(handicap;社会的不利[84])
機能障害あるいは能力低下の結果としてその個人に生じた不利益であって、その個人にとって(年齢、性、社会・文化的諸因子からみて)正常な役割を果たすことを制限あるいは妨げるもの[84]
国際障害分類試案(ICIDH)に対する評価
編集国際障害分類試案(ICIDH) は、障害を階層的に整理したモデルを提示した点に大きな意義がある。すなわち、「疾病」と「障害」とを概念上明確に区別することにより、「病気は治らなくても障害は軽減できる」という考え方を提示した。この発想は、慢性疾患や不治の病を抱える患者本人や家族に対して、前向きな生活態度を保つ可能性を示すものであった。同時に、医療関係者や医療行政に対しても、こうした患者に対する「障害を軽減させるサービス」、すなわちリハビリテーションサービスの重要性を認識させる契機となった[85]。
このような理念は、「病気や障害があっても、あきらめずに前向きに生き、社会はそれを支援すべきである」というリハビリテーションの基本的思想として位置づけられる[85]。ICIDHの「序論」における障害概念は、こうした理念を理論的に体系化したものであるといえる[85]。ICIDHの提示した障害モデルは、「疾病」と「障害」とを分離したうえで、「障害」をさらに3つの階層、すなわち機能・形態障害(impairment)、能力障害(disability)、および社会的不利(handicap)に分類したものである。この枠組みは、インペアメントが残っていてもディスアビリティは軽減し得るし、ディスアビリティが残っていてもハンディキャップは軽減できる、という形で、「あきらめない生き方」を普遍的メッセージとして示したものと解釈できる[85]。
一方で、1980年版ICIDHにおける「社会的不利(handicap, ハンディキャップ)」の概念は、後の改訂版(ICF)のように環境要因を明確に位置づけたものではなかった。当時のICIDHは、「障害が社会的に構築される」という社会モデル的発想に基づいたものではなく、あくまでインペアメントが日常生活動作および社会生活の2つの次元にどのように発現するか記述することを目的としていた[86]。したがって、ICIDHは身体機能や生活機能の「障害」を精緻に分類することには熱心であったものの、社会的な「障害」、すなわち「差別」にはほとんど関心を払っていなかった[87]。
実際、「社会的不利(handicap, ハンディキャップ)」の分類項目は「その他」を除けばわずか6項目にすぎず、インペアメントやディスアビリティの詳細な分類に比べてきわめて乏しい。さらに、その中には必ずしも「社会的次元」に属すとはいえない要素も含まれており、各項目の定義や下位分類にも「障害は社会と個人の相互作用によって形成される」という相互作用モデル的な視点は見られない[87]。こうした点において、ICIDHは「医学モデル」であるとして批判された[87]。
「変わるべきは障害者ではなく社会である」という主張自体は、すでに1970年代から唱えられ、1980年代には共生・ノーマライゼーション、さらには「障害個性論」などの理念とともに広く普及していた[88]。しかし障害学研究者の杉野昭博は、これら「新しい障害者福祉理念」は、援助実践における目標理念にとどまり、その前提となる「障害とは何か」という認識論的課題には踏み込まなかった点で、障害学の社会モデルとは決定的に異なると指摘している[88]。杉野によれば、「障害」をインペアメントという個人レベルでのみ捉えてその社会的次元を看過するならば、「障害者をありのままで受け入れる」ことへの社会的責任が曖昧になるという[88]。
また医療やリハビリテーションの専門家は、ICIDH初版が障害の否定的側面に重点を置いている点を批判した[77]。多くのリハビリテーション専門家は、障害者を「障害というマイナス面のみをもつ存在」とみなすのではなく、健常な機能や能力といったプラスの側面、さらには社会的不利だけでなく社会的有利さも併せもつ存在として捉えるべきだと主張した[77]。この立場からは、リハビリテーションはマイナスを減らすだけでなく、潜在的な能力を発展させる過程として理解されるべきだという主張がされた[77]。
障害当事者からの批判・改訂作業
編集障害者インターナショナル(DPI:Disabled People's International)は、『国際障害分類試案』(ICIDH)は「医学モデル」に基づいているとして強く批判した[89]。DPIは、1980年にカナダ・ウィニペグで開かれた「世界リハビリテーション会議」において、リハビリテーション専門家と対等の発言権を求めた障害者団体の要求が専門家たちから拒否されたことに端を発して結成された[87][90]。翌1981年にシンガポールで開催されたDPI設立総会においては、ICIDH初版の「障害」の定義がヴィック・フィンケルシュタインらイギリス代表団によって問題視された。その結果、「個人の機能損傷としてのインペアメント」と「社会的障壁としてのディスアビリティ」という「障害(ディスアビリティ)の社会モデル」に基づいた「障害」定義が、DPIの公式見解として、ICIDHに対抗するかたちで採択された[87]。
これを受け、翌1982年の国連総会では、WHOに対して、障害者の組織その他の適切な団体と協議のうえ、国際障害者年の経験に照らし、「インベアメント」「ディスアビリティ」「ハンディキャップ」のこれまでの定義を再検討するよう要請する内容の決議がなされた(第37回国連総会決議37/53『障害者に関する世界行動計画の実施』)[91][92]。ICIDH初版はあくまで「試案」という位置づけであることも相まって、発表されてからわずか2年後に修正に向けた決議が採択されたのである[91]。
「障害」問題を権利侵害あるいは差別の問題として捉えるDPIは、ICIDH初版は「障害」問題を過度に「医療化」するという観点から、当初はICIDHの廃止を要求していた[87]。しかし次第に、ICIDHの廃止は現実的に不可能であると判断し、次善の策としてWHOによるICIDHの改訂過程に関与する方向で運動を行うことになる[93]。
一方、カナダ・ケベック州では1986年に、リハビリテーション専門家らによって「国際障害分類に関するケベック委員会」(QCICIDH:Quebec Committee on ICIDH)が結成された[94]。1988年には「国際障害分類に関するカナダ協会」(CSICIDH:Canadian Society for the ICIDH)も結成された[94]。ケベック州では1987年6月に、ICIDH初版について検討する国際会議が開かれ、「ハンディキャップ(handicap,社会的不利)」に関して修正案を作成するよう勧告する決議がWHO、国連、DPI、欧州評議会などによって行われた[95][96]。「ケベック委員会」は、ハンディキャップが最も重要な問題であると考え、ハンディキャップの概念とその分類リストの修正案を検討した「カナダ・モデル」を提案した[94]。これは「社会的不利(ハンディキャップ)」が「環境因子」によって強く影響される点を強調した「相互作用モデル」であり[95]、1987年6月のケベック会議での勧告ならびにケベック州政府の障害者政策「On Equal Terms(対等な条件で)」に基づいたものであった[96]。この「カナダ・モデル」を提案したケベック委員会は、1990年代以降のICIDH改訂作業の主導権を握るようになる[95]。
1990年以降、ICIDHの改訂に向けた会議がほぼ毎年開催されるようになった。ICIDHの改訂を行うにはWHO総会の議決が必要とされたため、一連の会議では、各国の協力センター関係者や専門家の協力のもとWHO総会に提出するための改訂素案を作成する作業が進められた[97]。これらの会議はWHOが主催するものの、正式なWHOの議決機関ではなく、あくまで専門家による検討会議という性格をもつものであった[98]。
国際障害分類(ICIDH)改訂作業中に起きたDPIとWHOとの間の論争
編集こうしてICIDH初版の改訂作業が本格していく中で、DPIや障害学研究者と、WHOの改訂作業チームのリハビリテーション専門家との間に論争が起こった[99]。障害学研究者の中でICIDHの改訂作業を批判したのは、アメリカのデビッド・ファイファー(David Pfeiffer)である[100]。ファイファーは、以下のような理由からICIDHそのものの廃止を訴えた。
- 病人役割を前提としている
ファイファーは、ICIDHは「病人役割」を無意識のうちに前提としたものとなっていると指摘した[100]。タルコット・パーソンズが指摘した病人役割論によれば、「病人役割」(sick role)を付与された個人は、社会的義務を免除されることと引き換えに、医師をはじめとした医療職の指示に従って病気からの回復を目指すことが社会的に要請される。ファイファーは、「障害者」は「病人」ではなく、したがって病人役割を前提とするモデル(医学モデル)は「障害」を理解する枠組みとして不適切だとした[100]。ファイファーは、ICIDHの取りまとめを行った医師フィリップ・ウッドによる「障害」の捉え方には、明らかに「障害」と「病気」の同一視が見られると指摘した[100]。
- 「障害」問題を医療化する恐れがある
ICIDHは「保健医療分野」のみならず、環境面や社会的バリアの除去、就業のためのアセスメント、地域での在宅生活のニーズ調査、政策形成にも役立てることができると謳われた[100]。しかしこうした問題は、本来は医療問題ではなく、経済問題や社会問題や政治問題である。ファイファーは、「障害」に対する所得保障や介護サービス支給の決定権を医療専門職の手に過度に委ねることに対する批判を行っている[100]。
- 優生学的考えを助長する恐れがある
ICIDH初版の序論には、「国際障害分類は、各国の『健康寿命』healthy life expectancy を測定するための指標としても使用できる」との記述がある[101]。しかし健康寿命を重視する傾向は、要介護状態となった人生期間を否定的に見る傾向を強く促す[101]。アメリカではICIDHと類似した指標を用いて保健医療費の効率的配分を計画する提案がなされたこともあり、「障害」の測定が優生思想に結びつく危険性は現実のものであるとファイファーは主張した[101]。
- normal(正常/ふつう)概念の問題性
ICIDH初版における「障害」は、「インペアメント」「ディスアビリティ」「ハンディキャップ」の3つの次元全てにおいてnorms(規範)やstandards(標準)を満たせないこと、あるいはnormal(正常/ふつう)な役割や行為が「できない」こととして定義される[102]。しかし、社会的に「正常」や「ふつう」とみなされる基準は、必ずしも客観的なものではない。たとえば「歩く」という行為を考えたとき、どのような状況でそれが「正常」あるいは「ふつう」と言えるのかは明確ではない。「短い距離」であれば乗り物を使わずに歩くのが一般的だと考えられるかもしれないが、その「短い距離」とはどの程度を指すのかは人によって異なる。車椅子ユーザーの中には、杖や補助具を利用すれば短距離なら歩ける者も存在する。しかし、そうした人々が車椅子を利用するのは、その方がより楽で効率的だからであり、彼らにとっては車椅子による移動こそが「正常」または「ふつう」な方法である。このように考えると、「正常/ふつう」とは、その人にとって快適で、日常的に用いられる方法を指すにすぎない。ファイファーは、中流階級における「正常/ふつう」を唯一の基準として他者を評価し、それに当てはまらない行動を「異常」とみなすことは偏見であると批判した[103]。
- ICIDHのモデルは線形である
ICIDH初版の概念モデルは、「インペアメント(機能・形態障害)→ディスアビリティ(能力障害)→ハンディキャップ(社会的不利)」という線形の関係として示されていた。ファイファーは、このモデルは「インペアメントがディスアビリティを、ディスアビリティがハンディキャップを必然的に産み出す」とするものであり、「インペアメント還元主義」あるいは「生物学的決定論」に基づいたものであると批判した[103]。こうした見解はファイファーのみならず、多くの研究者や当事者からも提起された。一方で、これらの批判に対しては、ICIDHで示されたモデルの構造を誤って理解したものであり、初版序論に記された前提を無視して図式のみを見た感情的反発にすぎないという反論も存在する[77][103]。ファイファー自身もそうした反応を認識したうえで、「ICIDHの支持者たちは認めようとしないが、ICIDH初版の障害概念には、インペアメントが能力障害や社会的不利の原因であるという一方向的な因果関係が暗示されている」という趣旨の記述を行っている[103]。
- 「ハンディキャップ」という用語
「差別語」をめぐる問題は、アフリカ系アメリカ人の呼称の変遷にも見られるように、かつては差別的とみなされなかった語が、時代の変化とともに「差別語」とされ、名称を改めても再び新たな「差別語」が生じるという、いわばいたちごっこのような様相を呈する。しかし、アフリカ系アメリカ人の呼称は、当事者自身の意見に基づいて変更された。したがって、障害当事者が不快に感じる「ハンディキャップ」という表現についても、同様に廃止すべきであるとファイファーは主張した[104]。
障害学者デイヴィッド・ファイファーによる上のような批判に対して、WHOのICIDH改訂チームは、T・ベディラン・ウストゥン(T. Bedirhan Üstün)を筆頭著者として反論論文を発表した(Üstün et al., 1998)[注釈 3]。同論文においてウストゥンらは、「障害(とりわけ参加制約)」を純粋に医療的な問題としてのみ扱うことは誤りであるとしつつも、医療による問題解決の意義や可能性を否定する立場は「不幸な誤り」であると述べ、「障害者個人と社会の双方の変化(適応)」が必要であるとする立場をまず明確にした[106]。
この立場は「相互作用モデル」に基づくものであるが、ウストゥンらは従来の相互作用モデルによる自己弁護にとどまらず、医療社会学者アーヴィング・ケネス・ゾラの議論を援用し、ICIDH第2版草稿(ICIDH-2)がゾラの理論に基づく「社会モデル」を統合したものであると主張した[107]。ゾラの「社会モデル」は、マイケル・オリバーやハーラン・ハーンが提示した「マイノリティ集団アプローチ(マイノリティ・モデル, 障害者を特定の社会的マイノリティとして捉える立場[108])」とは異なり、障害を全ての人間に普遍的な経験として位置づける「障害の普遍化(universalization of disability)」の考え方に基づくものである[109]。なおゾラは、アメリカ障害学の形成に大きな影響を与えた医療社会学者であり、「アメリカ障害学の父」とも評されている。
ウストゥンらによれば、ICIDH-2は障害を少数者固有の問題としてではなく、人間に普遍的な経験として位置づける「普遍的アプローチ(universal approach to disability)」を基盤としている[107]。この立場によって、障害者差別禁止法や社会参加促進政策の効果を測定する枠組みが可能になるとされる[107]。ゾラは、すべての人が慢性疾患や障害のリスクにさらされていることを指摘し、障害を特別視しない「普遍主義的障害政策(universalistic disability policy)」の必要性を主張していた[107]。ウストゥンらはこの考えを踏まえ、ICIDH-2が「障害者」と「その他の人々」という区分を撤廃し、社会的障壁を科学的に研究するための理論的基盤を提供するものであると位置づけた[110]。
このように、WHO改訂チームは、ICIDH-2を「社会モデル」を取り入れた枠組みとして提示しつつも、その「社会モデル」とは障害学が提唱してきたマイノリティ・パラダイムとは異なる、ゾラに由来する普遍主義的社会モデルであると位置づけた。この主張は、障害学側に対し「社会モデル」概念の多義性を問い直す理論的課題を提示することとなった[109]。
国際生活機能分類(ICF)
編集ICIDH-2は、正式名を国際生活機能分類(ICF: International Classification of Functioning, Disability and Health)として、WHO第54回世界保健総会において採択された。ICFは、障害を3つのレベルに分けて捉えるという点で、ICIDH(国際障害分類)と基本的な枠組みを共有している[77]。しかし、ICIDHが障害のマイナス面のみを取り上げていたのに対し、ICFは健康というプラスの側面も含めた、人間の健康状態に関わるあらゆる側面を対象とする包括的な分類へと転換された[111]。
具体的には、従来の「impairment(機能障害)」の位置には「Body Functions and Structure(心身機能・身体構造)」が、「disability(能力障害)」の位置には「Activity(活動)」が、「handicap(社会的不利)」の位置には「Partcipation(参加)」がそれぞれ置き換えられた[112]。
そして、これらが障害された状態を表す語が新たに定義された。「Body Functions and Structure(心身機能・身体構造)」が障害された状態は「impairment(機能・構造障害)」[注釈 4]、「Activity(活動)」が障害された状態は「Activity limitations(活動制限)」、「Partcipation(参加)」が障害された状態は「participation restrictions(参加制約)」と定義された[112]。
ICFにおいては、これら「障害された状態」を包括的に表す状態として「disability」が使用されるようになった。すなわち、ICIDHでは 「disability」 が三層構造の中間階層(能力障害)のみを指していたのに対し、ICFでは「障害」全体を示す包括用語へと意味が拡張された点に注意が必要である[77]。
ICIDH初版で「disease or disorder(疾患・変調)」であったものは、ICFでは「Health condition(健康状態)」という中立的な用語で表されるようになった。これは疾患だけでなく、妊娠、高齢、ストレス状態、先天異常、遺伝的素因などを含む広い範囲のものを射程に含むようにしたことによる用語変更である[77]。

ICFのモデルは図の通りである。ICFでは、心身機能の障害のみによって生活機能の障害を分類するのではなく、活動や社会参加、特に環境因子に着目する点に特徴があるとされる[113]。例えば、同程度の機能障害であっても、その人を取り巻く生活環境の違いによって、さまざまな活動へ参加できるレベルに違いが生じることに注目している[113]。
ICFは、情報を2つの部門に整理している。第1部 (Part 1) は生活機能と障害 (Functioning and Disability)、第2部 (Part 2) は背景因子 (Contextual Factors) を扱う。第1部の構成要素は「心身機能・身体構造 (Body Functions and Structures)」「活動 (Activities)」「参加 (Participation)」であり、第2部の構成要素は「環境因子 (Environmental Factors)」「個人因子 (Personal Factors)」である。
これは、ICIDHにおける構成要素について、負の側面だけでなく積極的側面も射程範囲に収められるよう「疾病」は「健康状態」、「機能障害」は「心身機能・身体構造」、「能力障害」は「活動」、「社会的不利」は「参加」という言葉に置き換えられたものである。さらに、これらに影響を及ぼす要因として、「個人因子」のみならず「環境因子」が加わっている[114]。ICFはこのことを根拠に、自らを「2つの対立するモデルの統合」、すなわち医学モデルと社会モデルの統合に基づくものであると位置づけている[114][115]。
これに対し、倉本智明は、医学モデルと社会モデルの統合は論理的に不可能であると批判する[116]。すなわち、環境因子を導入し、各要素間の関係を複線的なものとして捉えたとしても、社会的不利益の発生に生物学的・医学的意味での身体の関与を認める限り、それは別種の医療モデル、あるいは個人モデルにほかならないと主張する[116]。
星加良司は、ICFについて、旧来の国際障害分類(ICIDH)の基本的枠組みを継承しつつ、障害に関する国際比較のための共通言語を提供する点を評価するとともに、環境因子の明確化や諸要素間の双方向的関係の導入など、理論的進展が見られると述べる。星加はとりわけ、人間と環境との相互作用として生活機能を捉える視点や、障害を健康状態全体の中で相対化する枠組みについて、ディスアビリティを関係論的に理解する可能性を開くものと評価している[117]。
一方で星加は、ICFにはいくつかの限界があると批判する。すなわち、ディスアビリティの生成における社会的価値や規範の構築性が十分に考慮されていない点[118]、インペアメントが依然として医学的・生理学的な標準からの逸脱として定義されており、インペアメントもまた文化的・社会的に産出されるものであることが捉えられていない点[119]、さらにディスアビリティが個人の内的過程を通じて生成・増幅される側面が看過されている点[120]である。星加はこれらの理由から、ICFの枠組みはディスアビリティの多様な生成過程を十分に説明し得ず、不十分なものであると結論づけている[120]。
杉野昭博は、ICFにおける医学モデルと社会モデルの統合過程について、障害学とリハビリテーション学との間で大規模な論争が生じたと指摘し、それは調和的な調整の結果ではなかったと論じている。その上で、ICFにおける「生物・心理・社会モデル」は、こうした理論的対立や矛盾を内包したまま成立した妥協的産物にすぎないと評価する[19]。さらに杉野は、この論争が英米における障害の社会モデルの理論的発展にとっても重要な契機となったとしている[19]。
東俊裕は、障害の社会モデルに基づく障害観を採用した障害者権利条約とICFとを比較し、両者の目的および分析枠組みの相違を指摘している。すなわち、ICFが健康状態および健康関連状況を記述するための統一的な言語と概念枠組みの提供を目的とするのに対し、障害者権利条約に基づくモデルは、人権の確保を目的として、社会的不利の原因を社会的障壁に求め、社会のあり方を分析する視点を提示するものであるとする[114]。
その上で東は、ICFが主として障害者個人の状況の分析に焦点を当てるのに対し、条約モデルは社会の分析に力点を置くとし、両者は相互に代替し得るものではないと論じる。さらに、ICFと条約モデルは、それぞれ異なる目的と対象領域に基づき、異なる判断枠組みを採用しているため、一方が他方を包摂する関係にはなく、それぞれ独立した概念および手法として位置づけるべきであると指摘している[114]。
社会モデルの歴史
編集本項では主にイギリスにおける障害学について、社会モデルの変遷の観点から記述する。
大学における障害研究は、長らく臨床医学的な視点から行われてきた[121]。障害を病理的なものとして捉えないという議論は、1950年代に始まった障害者権利運動以降に活発化した。
障害学の概念的基盤は、その形成過程において他の社会科学分野からの用語や概念の借用に依拠する部分が大きかった。そのため、障害に関する初期の言説には、医学、心理学、社会学、人類学などにおける障害理解の歴史的枠組みが反映される傾向がみられた。これらの学問領域では、障害は支配的文化の中で逸脱した個人的経験として位置づけられていた。しかし、障害当事者が集団としてまとまるようになるにつれて、障害概念には新たな多層的意味が付与され、社会的・政治的論議が展開されるようになった。この過程は、障害を、個人的経験であると同時に公共的かつ比較文化的な経験として検討する契機をもたらした[122]。
個人の悲劇と医学モデル
編集障害の医学モデルとは、「障害」を病気や外傷などの身体的・精神的な異常に起因する個人の問題として捉える枠組みである[123]。このモデルでは、障害は個人の内部に生じた悲劇であり、その克服責任は本人および家族に帰属するとされる[124]。そして、その努力を医療専門職、リハビリテーション関係者、 そして家族や周囲の人間たちが協力していかなければならないという図式が語られることとなる[124]。結果的に、障害は医療的治療やリハビリテーションによって改善されるべき対象とみなされ、専門家による介入が重視される[123]。
医学モデルの考え方は、19世紀の近代医学の発展とともに確立された[124]。近代国家は公衆衛生政策や医学的管理を通じて「健康な国民」を育成しようとし、障害はその枠組みから逸脱した存在として位置づけられた。こうした中で、医療専門職は障害を治療・管理の対象として医療化し、福祉や慈善の領域では、障害者を「保護すべき弱者」「不幸な人々」として扱うパターナリズム的発想が広がった。医学モデルは、二元論を提示し、そのなかで非障害者を障害者よりも優れていると分類する傾向がある[125]。そのような解釈は、障害者の大規模な収容施設(コロニー)や、障害者の生殖の権利の否定ともつながっている[125]。
障害の社会モデルが提唱される以前の障害研究においては、障害(者)が社会から排除されることは自明の前提として扱われ、その排除に至る過程や構造に対しては十分な関心が払われてこなかった[126]。障害に関する社会的排除の研究として位置づけられるものを遡って見いだすとすれば、第2次世界大戦後のアメリカにおける偏見や差別の社会心理学的研究、あるいはタルコット・パーソンズによる病人役割研究が挙げられる[126][127]。
社会学の内部では、1960年代後半から1970年代にかけて障害分野全般への関心が増大していき、ロバート・A・スコット(1969)、ゲイリー・L・アルブレヒト(Gary L. Albrecht)(1976)、ミルドレッド・ブラクスター(1976)、ピーター・タウンゼント(1979)などによる出版物が発行された[128]。1970年代における、ラベリング理論をはじめとする逸脱社会学の隆盛は、その下位分野としての「障害の社会的排除研究課程」を生み出すきっかけとなった。これらの研究は、障害が社会的文脈の中でいかに逸脱として認識され、その認識がどのように強化されるか、あるいは逸脱と見なされないようにするために障害者個人がどのような努力をしているのかといった、障害者個人と社会環境との相互作用に光を当てたという点で、とりわけアメリカ障害学の成立に大きな影響を及ぼしている[126]。しかし上に挙げたような研究は、障害者個々人、ないし障害者という集団の不利益の原因を理論化してはおらず、またそうした不利益を問題としたものでもなかった[129]。
社会モデルの誕生
編集既成の障害観への挑戦は、アカデミズムではなく障害者自身から発生した。とりわけイギリスの障害者運動は、従来とは異なる急進的な障害の解釈を提示した点で重要である[129]。障害がなぜ逸脱と見なされるのか、なぜ障害が社会から排除されなければならないのかといった課題に対して最初に回答したのは、マイケル・オリバーによる障害理論であった[126]。オリバーが1983年の著書『Social Work with Disabled People』において初めて提唱した「障害の社会モデル」は、1970年代後半における隔離に反対する身体障害者連盟(UPIAS)をはじめとしたイギリスの障害当事者運動や、障害者インターナショナル(DPI)におけるイギリス代表団の主張を整理したものであった[126]。
1960年代後半のイギリスでは、長期入所施設で生活していた障害者たちが、自らの生活スタイルの自己決定や、居住の場たる施設の運営に参加する民主的権利を求める運動を開始した[130]。入所者たちは施設での生活に、単なる規則の厳しさ等ではなく、社会的排除と抑圧を見いだした[130]。入所者が自らのライフスタイルをコントロールすることを認めない施設は、障害に対する支配的な価値観が最も直接的に具現化された場であるとされた。ポール・ハントは1970年代前半、各地の施設に入所している障害者らに利用者主権の運動の結成を呼びかけ、UPIASを設立した[130]。UPIASは、施設生活を「社会的な死」とみなし、地域で暮らす権利を要求する運動を展開した。こうした運動の中で、社会的排除や抑圧が障害者に共通する経験であること、そして自分たちの社会生活を妨げているのは個人の能力ではなく、社会の側に存在する障壁であることを認識していった[130]。
UPIASは1976年、研究論文『ディスアビリティの基本原理』において、インペアメントとディスアビリティの定義を示した[131]。これは障害者の自らの生活体験をもとにした障害定義であり、障害の社会モデルに関する文献では頻繁に引用される[131]。UPIASによる障害の定義は、当時のWHO分類の限界や曖昧さを強調することとなった[131][注釈 5]。医療やその他の専門家は、インペアメント(impairment, 身体の機能損傷または機能不全)とディスアビリティ(disability, インペアメントによってもたらされる種々の困難)の定義と差異の双方を曖昧にしていると主張した[131]。
UPIASは、身体的インペアメントを有する人は、施設の中で孤立させられるか、さもなければ社会的・経済的な生活への全面参加を阻まれること[注釈 6]によって、障害のある状態(disabled)にされると主張した[131]。UPIASのこの見解によれば、身体的ディスアビリティは、医学的状況から発生する制約ではなく、環境的・社会的抑圧の一形態として解釈される[131]。
UPIASによるインペアメント、ディスアビリティの説明は以下の通り。(訳文の出典;[132])
- インペアメント(機能障害)
四肢の全部または一部が欠損しているか、不完全な四肢、臓器、身体機能をもつことを重視する。言い換えれば、これは、個人1人ひとりに注目するということ
- ディスアビリティ(能力低下)
身体的にインペアメントのある人々に対する配慮がまったくないか、ほとんどない現代の社会組織によって行動が不利になるか、制限され、それゆえ、社会活動の主流から取り残されることを重視する
これらの当事者運動の理論的整理を行い、「障害の社会モデル」という用語を提唱したのが、社会学者マイケル・オリバーである。社会モデルは、障害を「個人の問題」ではなく「社会の構造的抑圧」として分析する視点を提供し、以後の障害学の基礎理論となった。
オリバーはその後、1990年の著書『Politics of Disablement(無力化の政治)』において、障害(ディスアビリティ)の成立を資本主義社会の歴史的・構造的産物として分析した[133]。オリバーは、障害者を社会から排除する「抑圧」を、イデオロギー的側面と制度的側面の二つに区分して説明する[133]。まずイデオロギー的側面として、近代化と資本主義の発展によって生じた労働の個人化と生産性至上主義を指摘する。資本主義的労働市場が発展するにつれ、「健常(able-bodied)で正常(able-minded)」な労働者以外は生産現場から排除された[133]。こうした選別を正当化する装置として機能したのが医療イデオロギーである。医学的診断は「健康/病気」「健常/障害」という二分法に基づき、労働者を「労働に参加すべき者」と「治療・リハビリに専念すべき者」に振り分けることで、労働市場の境界を維持し、資本主義の秩序を支える役割を果たしたとされる[133]。すなわち、「健康/病気」「健常/障害」といった医学的分類は、労働者を「働くべき者」と「治療・リハビリに専念すべき者」に選別し、労働市場の内部と外部に振り分ける装置として作用したとされる[133]。こうした医学的・制度的メカニズムこそが資本主義社会の秩序構築において重要な役割を果たしたとオリバーは分析している。
フェミニズムからの批判・社会モデルにインペアメントを包摂する試み
編集社会モデルの大きな功績は、障害を個人の不運や悲劇ではなく、社会の側に生じた構造的問題として捉え直した点にある[134]。当初、社会モデルの目的は障害(ディスアビリティ)の社会的責任や構築性を明らかにすることにあったため、その理論的関心はもっぱら社会的側面に集中していた[126]。しかしその結果として、障害者の身体的・心理的経験であるインペアメントが軽視されてきたのではないかという批判が、障害学内部から生じた[135]。スーザン・ピーターズ(Susan Peters)は、社会モデルが当事者の生の経験に即したオルタナティブな世界観を提示できていないと指摘し[136]、この問題を契機として、障害学内部でインペアメントを理論的に再考する動きが始まった。
この「インペアメント問題」を最初に提起したのは、女性の障害者たちである。ジェニー・モリス(Jenny Morris)、リズ・クロウ(Liz Crow)、サリー・フレンチ(Sally French)といった女性障害者たちは、社会モデルによるディスアビリティの扱い方に違和感を示した[137][135]。というのも、女性障害者にとって社会的不利とは、既にジェンダー問題を通じて体験済みのものであり、障害者固有の問題として切り離して論じられることに疑問を抱いたからである[135]。むしろ彼女たちが日常的に直面する困難の多くはインペアメントに起因しているのではないかという認識が広がっていった[135]。
こうしたフェミニズム的批判は、社会モデルの自省を促し、インペアメントを包摂したより包括的な理論形成を推進した。オリバー社会モデルに対する女性障害者たちの違和感の根本にあったのは「労働における障害の排除を重視する視点が、労働市場における稼得能力に社会的地位の源泉を見出す男性中心主義のように映る[138]」ことであり、これに対する回答はイギリス障害学にとっての責務とされた[138]。
なお、当のマイケル・オリバーも、(従来医学的現象と見なされてきた)インペアメントは「文化的に生み出されている」ものであることを指摘している[135]。しかしオリバーが創始したイギリス障害学は、もともと経済社会的分析に重点を置く社会科学的性格が強く、個人的領域に属するインペアメントの体験を扱うことにはかなり慎重であった[135]。これは、政治化された障害問題を再び個人の問題に引き戻すことへの警戒感があったためである[135]。しかしインペアメント問題の登場によって、そうした慎重さそのものが問い直されることになった[135]。
こうした女性障害者たちの批判に最初に反応したのはトム・シェイクスピアであった[138]。シェイクスピアは、マイケル・オリバーが「方法論的個人主義や心理主義を明確に拒絶して、社会構造に焦点を当てる'唯物論'的アプローチを取った」点を評価しつつも、他方でインペアメントと文化・表象・意味などの問題が軽視されることになったと指摘した。彼はこの点で女性障害者たちの批判に同意している[138]。一方でシェイクスピアは、インペアメントの文化的表象は社会的に意味づけられるものであり、障害のイメージを扱うことが必ずしもインペアメントを重視したり、生物学的還元主義に陥ったりすることを意味しないと論じた[138]。さらに、障害者に対する偏見的イメージが、社会的な記号や価値のメタファーとして機能していることを示し、障害イメージの社会分析に必要な理論的枠組みを検討した[138]。その中でシェイクスピアは、オリバーも「イデオロギー」という概念を通じて社会の支配的価値を捉えようとしていたが、経済決定論に依拠していたため、文化や意味の分析に十分な重きを置けなかったと批判した[139]。そして「経済的諸関係を考察することは非常に重要だが、すべてを経済的要因で説明するのは誤りである」との立場をとった[139]。オリバーの経済決定論に一定の留保を示したこの指摘は、イギリスの社会モデルの展開において画期的な論点とされる[139][注釈 7]。1997年のワトソンとの共著論文においてシェイクスピアは、フェミニズムやポストモダン理論といった異なる世界観の中でも、社会モデルの理念は維持可能であり、むしろそのような多様性を持つことが望ましいと論じた[139]。
このようにイギリス社会モデルは、経済決定論を放棄することによって、障害の社会的排除をもっぱら社会規範の観点から考察してきたアメリカ社会モデルとの理論的接合への道を開いた[139]。
またフェミニスト障害学は、イギリス社会モデルに、インペアメントや障害の個人的体験を「社会的抑圧」として捉える視点を提供した[139]。カナダの女性障害学者シャロン・デール・ストーン(Sharon Dale Stone)は、「見えやすい障害」と「見えにくい障害」のうち、前者ばかりが問題視され後者が忘却されるのはなぜかを問い、その背景に「完全なる身体(bodily perfection)」という幻想があると指摘した[141][142]。ストーンによれば、欠陥のない「完全な身体」という神話は、障害のある身体を「見えやすい障害」としてごく一部の例外的な存在に押し込める一方で、大多数の人々が抱える「見えにくい障害」を不可視化している[143][142]。また、この「完全なる身体」の神話は、すべての身体的疾患は治療可能であるという幻想を生み出したという[143][142]。ストーンは、この幻想が現在まで残る「リハビリテーション・イデオロギー」につながっており、このイデオロギーが病気予防や体重管理への強迫的な志向として今日でも人々を拘束していると論じた[143][142]。彼女によれば、「完全なる身体」という神話によって抑圧されているのは、社会的スケープゴートとされる「見えやすい障害者」だけではない。多くの「見えにくい障害」をもつ人々もまた、到達不可能な理想像を追い続けるよう強いられることで、同じ抑圧の構造の中に置かれているとする。このようなストーンの分析は、アメリカ障害学の創設者アーヴィング・ケネス・ゾラによる「健康至上主義(healthism)」批判を想起させるものであり、フェミニスト障害学によるイギリス社会モデル批判への理論的応答は、アメリカ社会モデルによって与えられるということを示唆している[143]。
身体社会学(ポスト構造主義アプローチと現象学的アプローチ)を用いた「インペアメントを内包した社会モデル」
編集女性障害者たちによるオリバー社会モデル批判から始まったイギリス障害学の内部論争は、以上のような経緯を経て、ビル・ヒューズとケヴィン・パターソン(Bill Hughes and Kevin Paterson)の研究成果によってほぼ終結する[144]。彼らは、障害の二元的定義や、インペアメント―ディスアビリティの認識論上の区別は、障害を社会的抑圧と捉える視点を提供して障害学と障害者運動を発展させてきたものの、身体に関わる障害問題を医学モデルの支配下に置き忘れたままにする結果を同時にもたらしたと主張する[144][145]。インペアメントを医学モデルではなく社会モデルで捉えるために彼らが用いたのは、身体社会学の視点であった。
身体社会学とは、ミシェル・フーコーの身体研究に代表されるポスト構造主義・社会構築主義的アプローチと、メルロ=ポンティの身体化論に代表される現象学的アプローチという2つの観点から、身体に働く社会的作用を解明しようとする学問である[144]。身体社会学の成果を導入することにより、障害学の議論は、インペアメントを「身体化された抑圧」とみなす視点へと発展していった[135]。
ポスト構造主義からのアプローチ
編集フーコーは、「生物的・物理的身体」とは異なる「記号としての身体」あるいは「政治的身体」という概念を提示した[144]。フーコーは、「身体」を政治的権力が最も直接的に作用する場であると位置づけた[146]。フーコーは、人間の身体を分類・標準化・矯正・訓練・管理・統治することそのものが政治であり、権力の行使であると考えたのである[147]。
この観点に立つと、インペアメント、すなわち「障害名を付与された身体」は、身体の標準化=記号化の過程において生じた一つの記号にすぎないことになる[147]。したがって、インペアメントは生物医学的な存在ではなく、言語と同様に社会的に構築されたものとして理解される[147]。
このような視点に基づけば、インペアメントを医学モデルや個人の属性としてではなく、社会的レベルで生じる現象として捉えることが可能となる[147]。すなわち、インペアメントのある身体を意識させられるのは、社会的障壁が存在するためである[135]。人は社会的障壁による不利益を通して、自らの身体的差異を否応なく意識することになる[135]。たとえば、聞こえないという状態そのものは欠損ではないが、音声中心の社会制度や慣行が障壁として作用することにより、ろう者や難聴者は自らの「聞こえないこと」を欠損として認識せざるをえなくなる[135]。このように社会的障壁は「身体化」され、インペアメントとして刻印されるのである[135]。
ただしこうしたポスト構造主義アプローチには、身体をあくまで「言語による産物」「記号」として捉えるがゆえに、「物理的な身体」が視野に入らなくなり、日常生活における具体的な身体経験を捉え損なうという問題点がある[148]。ヒューズとパターソンは、トム・シェイクスピアとニック・ワトソン(Nick Watson)による1995年の論文[注釈 8]を引用し、ポスト構造主義は「生物学的本質主義(biological essentialism)」を「言説本質主義(discursive essentialism)」に置き換えただけであると論じた[149]。ヒューズとパターソンによれば、ポスト構造主義的立場においては、身体は多様な言語的・象徴的意味作用の産物に還元され、自然的・物質的存在としての身体が理論上から消去されてしまう[149]。結果として、身体や身体感覚は言説の領域に吸収され、身体そのものの実在性が捉えられなくなるというのである[150][148]。
現象学からのアプローチ
編集フーコー的な身体論は上述のように、インペアメントの社会的意味を分析する上で有用であるが、インペアメントの体験、すなわち障害の個人的・主観的な経験そのものを十分に捉えることはできないと指摘されている。この限界を補うものとして、メルロ=ポンティの「身体化(embodiment)」の概念を基礎に据えた身体の現象学的エスノメソドロジーによるもう一つの身体社会学的アプローチが導入された[148]。
メルロ=ポンティの身体観の特徴は、身体を「『蝕知される客体』であると同時に『知覚する主体』でもある」と見なす点にある[148]。つまり、フーコーが「記号としての身体」に注目したとすれば、メルロ=ポンティは「感覚器としての身体」に着目したと言える[148]。
この立場では、人間が世界の諸現象を認識する際、その認識は常に身体感覚を通じて媒介されていると考える[148]。身体感覚を通して得られた知識は「身体化された知識」と呼べる。そして認識する主体を自己とみなすならば、身体と自己は不可分であるといえる[151]。さらに、知識や認識そのものが社会的に形成されることを踏まえると、「知覚する身体」あるいは「身体化された知識」という概念においては、身体・自己・社会(文化)が渾然一体のものとして捉えられる[151]。
このような身体観を障害の理解に応用する場合、インペアメントのみならず、社会的障壁としてのディスアビリティもまた、身体を通じて経験的に認識される現象とみなすことができる[152][151]。身体的苦痛に意味が与えられるのは、「個人的に身体化された知識(苦痛に関する個人的知識)」と、「文化的信念として共有される社会的知識(苦痛に関する社会的知識)」との共同作業(symbiosis)によるとされる[151]。パターソンとヒューズは、ニック・クロスリー(Nick Crossley)が提示したパラダイム「社会的なものは身体化され、そして身体は社会的なものである(the social is embodied and the body is social)」を、インペアメントとディスアビリティの概念に対する批判的再検討の文脈で再構成し、「ディスアビリティは身体化され、インペアメントは社会化される」と述べた[152][151]。
従来、「個人的文脈の中に閉じ込められていた[153]」インペアメントは、こうして社会的文脈の中で語ることが可能になった。パターソンとヒューズは、インペアメントの個人的経験を社会的抑圧と結びつけて分析する道を開いたのである[154]。インペアメント(身体)は必ずしもディスアビリティ(社会的障壁)の直接的反映とは限らないものの、個人の身体的問題とみなされてきた多くの現象が、実際には「身体化された社会的抑圧」として理解できるということが、身体社会学のアプローチによって示唆された[154]。このように、インペアメントをも社会的構築物として把握することにより、社会モデルはその理論的射程を拡張した。
ここまでの議論を整理すると、イギリス障害学(オリバーによる社会モデル)は、しばしば「社会モデルはインペアメントや個人的経験を捨象している」と批判されてきた。こうした批判に応えるかたちで、イギリス障害学内部では次のような変化が見られた。すなわち、オリバーが持っていた経済決定論的な立場を離れ、経済的要因と価値・文化的要因の双方を重視する多元的な視点へと移行したのである。さらに、ポスト構造主義の理論を取り入れ、社会的障壁だけでなくインペアメントそのものも社会的価値や規範によって形づくられるカテゴリーとして捉えるようになった。また、個人的な障害経験についても、現象学的な「身体化」の議論を通して社会的抑圧との関係で理解しようとする試みが進められた。こうして、インペアメントや個人の経験を社会モデルの射程に取り込もうとする新しい潮流が登場したのである。
他方で、こうした拡張作業の結果、インペアメントとディスアビリティの二元論が有していた「社会モデルの分かりやすさ」は失われた[155][156]。また、社会モデルと、国際生活機能分類(ICF)のような折衷的モデルとの境界が曖昧になったという課題も残されている[155][156]。
障害学におけるインペアメント論の展開は、従来見過ごされてきた側面(すなわち、インペアメント自体を社会的抑圧として捉え、人権侵害の一形態として分析する視点)に光を当てた[156]。この視点は、社会モデルの基本的立場を継承しつつも新たな切り口による別の枠組みを提示する契機となり、のちに展開される「障害の文化モデル」の形成へとつながった[156]。
障害の文化モデル
編集上項で述べたようにインペアメント問題は、ディスアビリティと同等かそれ以上に、インペアメントそのものへの関心を喚起する契機となった。その理論的な成果として、インペアメントの社会モデルへの包摂が可能になったことも上述のとおりである。あわせて、この問題への関心は、インペアメント体験を共有することによって形成される共通のアイデンティティ、価値観、生活慣習、ルールといった文化的側面への注目を促すことにもつながった。そこからは、こうした共通性を土台にした「障害(者)文化(disability culture)」と呼ばれるものが成立し、それは社会の中でメインストリームを成す「健常者文化」とは異なるという考え方と結合していく[157]。
障害者文化の発現には様々な様式があり、それは(1)歴史的、(2)社会政治的、あるいは(3)個人的・審美的などといった複数のコンテキストに依拠した概念だといえる[158]。歴史的には障害者による芸術、詩、言語、コミュニティ形成が文化的表現として評価され、社会政治的には社会経済的正義、急進民主主義、セルフエンパワメントといったマイノリティ運動と連関した。さらに個人的・審美的文脈では、インペアメントを持ちながらの生活スタイルや、肯定的なアイデンティティのことを指す[158][159]。
このように「障害者文化」の捉え方は発現の文脈によって様々であるが、いずれも「健常者とは異なる、共有されたアイデンティティと関心」が土台になっているという共通要素がある[158]。障害者文化はしばしば「異化(defamiliarization)」という概念を鍵語として発展してきた[158]。つまり、健常者との相違をあえて強調し、それをアイデンティティの核とする戦略である。この文化的「異化」は、1970年代の障害者コミュニティ形成にかかわる運動において重要な思想的武器となった[158]。
スーザン・ピーターズ(Susan Peters)は、障害者文化の起源、すなわちその母胎となった障害者コミュニティの形成過程は、国や地域によって異なると述べている。その理由は、障害者が置かれている社会的・政治的・経済的条件がそれぞれ異なるためである[158][159]。イギリスはじめ西欧諸国では、制度的・経済的なバリアの除去を目的とした唯物論的運動が中心であり、アメリカでは公民権運動の影響を受け、市民としての権利や個人の尊厳が強調された[158]。これに対してインドやアフリカ諸国では、障害者運動が貧困や教育・医療の不足といった「生存への脅威」に対応する形で発展し、また障害者だけのためではなく国家や社会全体の発展に寄与するような運動が求められたという[158][159]。
ピーターズは、マジョリティに対する文化的オルタナティブとしての文化形成の先駆的な例として、ジンバブエにおける入所型ミッションスクールを挙げている。そこで障害者たちが自らを「ヌグボエンジャ(Nguboyenja)」と呼び合い、相互支援組織「クバアシラナ(Kubatsirana)」や「ヌセエダナニ(Ncedanani)」を結成していった過程を指摘している。このような共同体の形成は、共通の経験を通じたアイデンティティの共有を促進し、障害者文化の萌芽となった[158][159]。
日本では、1970年代の脳性麻痺者(CP者)団体「青い芝の会」にその先駆的な実践が見られる[160]。同会の行動綱領は「われらは自らがCP者であることを自覚する」「われらは愛と正義を否定する」「われらは健全者文明を否定する」と宣言し、健常者中心の価値観を根本的に問い直した[160][161]。青い芝の会の理論的支柱であった横塚晃一は、「健常者文化」とは異なる自立的な「障害者文化」の創造を目指していた[162]。
アメリカにおける社会モデルの発展
編集アメリカの障害学は、障害者が一人前のアメリカ市民としての地位を主張するという点で、公民権運動と深く結びつきながら発展してきた[163]。障害者は、黒人、新移民、女性などと同様に、社会の中で「完全な市民」として扱われないマイノリティの一つとされていた[163]。こうしたマイノリティが対等な権利を求めて起こしたのが、公民権運動である。したがって、アメリカにおける障害者の位置づけを理解するうえでは、「マイノリティ」という視点が重要な鍵となっている[163]。
職業リハビリテーションを中心とした障害者政策の展開(~1960年代)
編集1920年までに、職業リハビリテーション法は8州において制定された。しかし、これらの州は先駆的な役割を果たしたものの、その取り組みが他州へと波及し、全国的な制度として定着するには至らなかった。そのため、連邦政府による財政的支援および制度的関与が不可欠とされるようになった[164]。
連邦政府による障害者対策法制は、1918年の職業リハビリテーション法(Vocational Rehabilitation Act. Public Law 65-78)に端を発する[165]。 本法はスミス=シアーズ退役軍人リハビリテーション法(Smith-Sears Act)とも呼ばれ[注釈 9]、第一次世界大戦によって障害を負った退役軍人の社会復帰のための職業訓練を主旨としたものであった[167]。また、1920年には民間人を対象とした市民職業リハビリテーション法(Civilian Vocational Rehabilitation Act, 通称スミス=フェス法Smith-Fess Act. Public Law 66-236)が制定された[168]。同法により措置された連邦補助金は、年間総額100万ドルと定められており[169]、その規模は限定的であった。他方で、各州に対しては、人口規模に応じた配分を基本としつつ、州が支出した額と同額を連邦政府が補助する(すなわち、50対50の割合で補助金を得られる[164])仕組みが導入された[169]。しかし初期のリハビリテーション施策は、職業訓練を主旨に据えたものであり、対象は治療可能な者に限定され、重度障害者をはじめとする多くの障害者をその中心に据えたものではなかった[170][168]。1920年の市民リハビリテーション法においては、「障害者(persons disabled)」とは、先天的または後天的な身体障害、もしくは虚弱のために「報酬を得る職業に就く能力が全面的または部分的に欠如している、あるいは欠如すると見込まれる者[注釈 10]」であると定義されている[169]。
第2次世界大戦へのアメリカの参戦後リハビリテーション施策は再び政治的関心を集め、1943年の改正職業リハビリテーション法(この改正法のことをバーデン=ラフォレット法Barden-LaFollette Actと呼称。Public Law 78-113)では、職業リハビリテーションの対象は、産業障害以外の中途障害者や遺伝性の障害にも拡大された[170]。バーデン=ラフォレット法の当時における影響は大きく、障害者の単なる職業指導から包括的サービス提供への発展の嚆矢となった[168]。しかし当時の職業リハビリテーション実践は、あくまで職業自立の見込みが高い障害者に対して、単純労働や共同作業所などでの限られた職業を紹介するものであった[170]。これに対し、ハワード・A・ラスクやヘンリー・H・ケスラーといったリハビリテーション専門医らは、障害者の職業訓練のみならず、心理的・社会的不適応も含めたあらゆるニーズにチームで対処する新しい実践を民間レベルで展開していた[170][171]。とりわけラスクは「包括的リハビリテーションの父」として知られ、「全人的」ニーズ(needs of the "whole man")に対応したアプローチを生み出した[172]。こうした取り組みの拠点となった民間リハビリテーション・センターに対し、連邦政府による財政的支援および州政府からの業務委託を可能にしたのが、朝鮮戦争後の1954年に、共和党のアイゼンハワー政権下で成立した、1954年改正職業リハビリテーション法(Public Law 83-565)であった[173]。1954年改正においては、連邦政府の州への補助を3分の2とし、重度障害者に対する職能評価期間を18カ月まで延長する改正が行われた[174]。これらの改革を主導したのが、当時連邦政府で要職にあったメアリー・E・スウィッツァーである。スウィッツァーは1950年に職業リハビリテーション局(Office of Vocational Rehabilitation)の局長に就任[175]して以降、アメリカの職業リハビリテーション政策の制度化と拡充に中心的な役割を果たした[173]。
1960年代に入って政権が共和党から民主党に移ると、スウィッツァーはリハビリテーション施策の対象を、従来の身体障害者にとどまらず、より広範な人々へと拡大する方向性を示した[173]。1960年アメリカ合衆国大統領選挙中の演説において、ジョン・F・ケネディは「貧困との戦い」という表現を使い[176][注釈 11]、翌1961年に設置された「少年少女の非行に関する大統領諮問委員会(President’s Committee on Juvenile Delinquency)」では、貧困問題が少年少女の非行問題の原因であるとの認識が示された[178]。これを背景として、1962年にはスウィッツァーが「行動障害(behavioral disabilities)」を対象とするリハビリテーション施策の展開を試みた[179][180]。さらに、リンドン・ジョンソン政権下で「貧困との戦い」政策が本格化すると、スウィッツァーはリハビリテーション施策を貧困者にも適用しようと政府部内で働きかけるようになる。「行動障害(非行など)」は個人の人格上の不適応問題とみなされ、貧困についても、ラスクをはじめとする専門家らは、「貧困とは単なる客観的経済状態のことではなく、人格上の不適応問題である」と考えていた[181][180]。 またケネディ政権下の1961年には、精神遅滞に関する大統領委員会(President's Panel on Mental Retardation)が召集されている[182]。1965年の職業リハビリテーション法の改正では、新たなサービス対象として「社会的に不利な立場の人々 (the socially handicapped) 」 が加えられた[180]。さらに1967年には、保健教育福祉省の大幅な組織改革によって、障害年金、職業リハビリテーション、障害児教育施策、知的障害施策という4つの障害関連施策が、社会リハビリテーションサービス局 (Social Rehabilitation Service) という1つの部局に統一され、それぞれの施策が充実・拡大していった[180]。
しかし、こうした貧困層を対象とする「社会リハビリテーション計画」は、ジョンソン政権期の貧困対策をめぐる政策的混乱のなかで挫折したとされる[180]。杉野昭博はその要因として、第一に、「貧困との戦争」が経済格差と人種差別が錯綜するなかで早期から困難化し、リハビリテーション行政が本格関与しようとした1967年時点では「人種対立がもはや取り返しのつかないところまで来ていた」点を挙げる[183]。第二に、当時焦点となっていた北部都市の黒人貧困層問題は、南部の農業労働者の北部への大量移動や、子どもを抱える黒人女性に対する雇用差別といった構造的要因を背景としており、個別的なリハビリテーション支援によって解決しうる性質のものではなかった点を挙げている[183]。「貧困との戦争」自体も、幅広い施策を用意しながらそれに見合う予算措置が不十分であったこと、成人の失業者対策が当初から欠如していたこと、政策の理論的基盤となっていたリチャード・クロワードとロイド・オーリンの「機会理論」の解釈をめぐる混乱といった要因から成功を収められずに終わる[183]。
福祉権運動やアドヴォカシーの影響で要扶養児童家庭扶助 (AFDC)受給者が増加した一方、1967年に保健教育福祉省が組織改変されて以降は公的扶助の増加が社会リハビリテーションサービス局の責任とされ、職業自立の達成ノルマが強化されたことにより、州行政官は緊張に晒された[184]。ニクソン政権成立後(1969年)には社会リハビリテーションサービス局が廃止され、スウィッツァーは1970年に引退を迫られ、退職後まもなく死去した[185]。ルース・オブライエンは、1970年のスウィッツァーの死は「リハビリテーション理念の終焉」でもあったと述べている[186][184]。
杉野昭博は、「貧困との戦い」がもたらした帰結として、「個人と環境の相互作用モデル」や「個別援助」といった、戦後アメリカ社会福祉の基本理念そのものが問い直されるという重大な課題が残されたと述べている[187]。杉野は、環境要因に配慮しつつも最終的には問題の所在を個人の責任に帰着させる「個人と環境の相互作用モデル」が、1960年代後半のアメリカにおける貧困問題にも適用されたものの、その過程で内在的な矛盾を露呈した旨を指摘している[188]。地域活動事業 (Community Action Program: CAP) における「最大限可能な参加」の原則は、黒人住民による自治要求や福祉権運動へと発展し、既存の地方政治や福祉行政との対立を生んだ。無料法律相談やアドヴォカシー活動は、当初は個人の社会適応を支援する手段とみなされていたが、やがて貧困層、とりわけ黒人母子家庭の権利意識を高め、集団的な権利要求運動へと結実した。その結果、貧困の原因が構造的・社会的要因にあると強く認識されるなかで、ケースワークやリハビリテーション・カウンセリングといった「個別援助」は妥当性を失い、ソーシャルワーカーは「治療家ではなく、貧しい人たちのためのアドヴォケイター(代弁者)、あるいは、社会との交渉人 (social brokers) 」となるべきだとする新しい考え方が出現した[189]。すなわち、貧困が個人の責任ではないとされる状況においては、個人への適応支援ではなく、環境や社会構造の変革を目指す集団的権利運動の支援こそが中心的課題となる。ラディカル・ソーシャルワークも、そのような歴史的状況のなかで形成されたとされる[187]。
自立生活運動と「消費者」の権利
編集20世紀後半のアメリカ合衆国における障害者政策の転換については、近年、障害当事者による権利獲得運動の成果という観点から歴史的に総括する研究が公刊されている。これらの研究は、従来「慈善の対象」として位置づけられてきた障害者が、1960年代から1970年代にかけて展開された当事者運動を通じて、「公民権」の主体として再定義されていく過程を描出する点に共通の特徴を有する[190]。とりわけ注目されるのは、第一に、1970年代後半の障害者権利運動を、黒人解放運動に端を発する公民権運動の一環として位置づける視点である。これらの研究は、抗議行動や法廷闘争、差別禁止の立法要求といった戦術や理念の継承関係に着目し、障害者運動を広義の公民権運動史のなかに組み込んで理解している。
第二に、障害者政策の転換点を1990年制定の障害を持つアメリカ人法(Americans with Disabilities Act: ADA)ではなく、1973年リハビリテーション法第504条に求める視点である。同条は、連邦資金を受ける機関における障害を理由とする差別を禁止した規定であり、差別禁止を法的原理として明示した最初期の連邦法規定と評価されている。これらの歴史研究は、第504条の制定およびその施行をめぐる当事者の抗議運動を、障害者政策が福祉・医療中心の枠組みから権利保障中心の枠組みへと転換する決定的契機として位置づけている。
1973年リハビリテーション法と自立生活運動
編集1973年に制定されたリハビリテーション法は、それ以前の「職業リハビリテーション法」と比較して、その理念と対象範囲の両面において画期的な転換を示した。同法においては、法名称から「職業」の語が削除されたことに象徴されるように、従来の職業的自立を主たる目的とする枠組みが相対化され、職業的自立が困難な重度障害者も含めてリハビリテーションの対象とすることが法的に明確化された[191][192][193]。これは、リハビリテーションを就労能力の回復・向上に限定せず、より包括的な社会参加の保障へと拡張するものであった[191]。
さらに、同法第504条は、連邦政府の財政的援助を受けるいかなるプログラムまたは活動においても、障害を理由とする差別を禁止する旨を規定した。この規定は、障害者を単なる福祉サービスの受給者としてではなく、差別からの保護を受ける権利主体として位置づけるものであり、障害者の市民権を明示的に承認した点において重要な意義を有する[191]。これにより、従来しばしば「二流市民」として周縁化されてきた障害者は、他の市民と同等の法的地位を有する存在として再定位されることとなった[191]。
ただし、1973年法における「重度者対策優先」原則の明記は、単に理念上の拡張を意味するのみならず、リハビリテーション行政をめぐる専門職集団の意向と制度的再編の文脈とも密接に関わっていたとされる。1950年代以降、州政府におけるリハビリテーション行政を担ってきたリハビリテーション・カウンセラーは、専門職大学院教育の制度化を通じて職業的自律性と資格的独占を確立し、独自の専門職集団を形成していた[194]。1960年代後半には、貧困対策の拡充とともに、リハビリテーション施策の対象が貧困家庭など「社会的に不利な立場の人々」にまで拡大され、社会福祉的施策との統合が進められた。しかし、この対象拡大は、従来の身体障害者中心の職業リハビリテーションとは異なる方向性を帯びるものであり、施策の正当性や専門性に対する疑義を生じさせたと指摘される[194]。こうした状況のもとで提示された「重度者対策優先」原則は、理念的には職業的自立の困難な重度障害者を優先的に支援することを意味するが、行政実務の文脈においては、リハビリテーション施策の対象を再び「身体障害者」へと限定し、貧困対策から切り離すことを志向する側面を有していたと解されている。すなわち、ここでいう「重度者」とは、主として身体障害を有する者を指すものとして理解され、1967年以前の職業リハビリテーション行政への回帰という性格を帯びていたとされる[194]。
一方、1970年代に入って急速に展開した自立生活運動の高まりのなかで、リハビリテーション施策に対して影響力を持ち始めた障害者運動家にとって、「重度者対策優先」原則は、文字通り障害が重度である者への優先的支援を意味するものであった[194]。彼らが従来の職業リハビリテーション行政に対して抱いていた不信の一因は、職業的自立の可能性が高いと判断された者のみを主要な対象とし、障害が重度である者や、治療・訓練の効果が不確実とみなされた者を排除しがちな傾向にあった点であるとされる[194]。この傾向は「いいとこ取り (creaming) 」と呼ばれ、1950年代から職業リハビリテーション行政の問題として認識されていたが、当時は、職業リハビリテーションから排除された障害者に対しては障害年金の支給によって対応するという考え方が一般的であった[194]。また、申請者の適性や動機、人格等を精査し、最も職業自立の可能性が高い者を選別したうえで訓練と就労機会を提供することこそが、リハビリテーション・カウンセリングの専門性であると理解されていた。カウンセラーは、クライアントの選別(screening)と職業自立計画(planning)の効率性および科学性を追求しており、「いいとこ取り」は経済的効率性を重視する政策運営の観点からは不可避の現象とみなされていた[195]。
しかし1960年代に入り、職業リハビリテーション施策の対象が拡大され、連邦資金の補助額が増大すると、利用者選別の運用にも一定の変化が生じ、比較的重度の障害を有する者にも支援が及ぶ事例が現れるようになった。たとえば、エド・ロバーツは、州政府の職業リハビリテーション資金を活用してカリフォルニア大学バークレー校へ進学している。ロバーツは14歳でポリオに罹患し、呼吸補助のために「鉄の肺」と呼ばれる人口呼吸器を長時間使用する必要がある重度障害者であった[195]。当初、カリフォルニア州リハビリテーション局は職業自立の見込みが乏しいとの理由で申請を拒否したが、支援者による働きかけを経て資金援助が認められたとされる[196]。
さらに、ジュディス・ヒューマンやレックス・フリーデンといった自立生活運動の指導者も、1960年代後半に職業リハビリテーション施策による資金援助を受けて大学に進学している[195]。これらの事例は、従来の「職業自立可能性を優先する」という運用原則に対する実践的な挑戦であり、重度障害者にも教育や社会参加の可能性があることを可視化する契機となった。1970年代に彼らが自立生活運動を組織した際には、こうした経験が「重度者の可能性」を前提とする主張へと結実し、職業リハビリテーション行政に対して、選別中心の運用からの転換と柔軟な対応を求める圧力として作用したと考えられる[195]。
1960年代後半からの10年余りは、障害者運動が福祉サービスの受給者という立場を超え、サービスの在り方そのものを問い直す「消費者運動」として展開した時期であったと位置づけられる[197][198]。自立生活運動においては、障害者は受け身の「患者 (patient) 」や「依頼者/被保護者 (client) 」ではなく、自らの生活と将来について意思決定を行う主体としての「消費者 (consumer) 」であるべきだとされた[198]。自立生活運動における主要な自立観は、「他者の援助を受けて15分で衣服を着て社会活動に参加できる人の方が、2時間かけて自力で着衣した結果、外出できず自宅にとどまる人よりも自立している」とする定義に象徴される[199]。この立場では、たとえ日常生活において介助を必要とする場合であっても、生活や社会参加に関する行為を自らの意思で決定・選択し、地域社会において他者との連帯を媒介に主体的な生活を営むことを「自立」と捉える。こうした自立観は、身辺自立(ADL自立)や職業的自立のみを重視してきた従来の自立概念を根本的に批判し、それらが困難な障害者に対しても人間としての尊厳や生活主体としての生き方を保障するうえで、歴史的に重要な役割を果たしたと評価されている[200]。
1973年リハビリテーション法において導入された「個別リハビリテーション計画 (Individualized Rehabilitation Program) 」は、こうした動向を制度的に反映したものと解される。同計画は、日本の介護保険制度におけるケアプランとは性格を異にし、リハビリテーション計画の策定過程への利用者参加を通じて、当事者の同意を得ることを法的に義務づけた点に特徴がある[198]。これにより、行政や専門職の判断のみを根拠として特定の職業訓練を一方的に割り当てることは許されなくなった[198]。
もっとも、「個別リハビリテーション計画」の義務化は、自立生活運動の主張のみを直接的に反映した結果として導入されたものではない。サービス利用者がサービスの内容や管理に参加するという発想それ自体は、1960年代の社会サービス行政において広く共有されつつあった理念であった[198]。「貧困との戦い」における地域活動事業では住民参加が制度運営上の混乱を招いた側面も指摘されているものの、サービス提供に際して利用者と合意や契約を結ぶという考え方自体は、当時の社会福祉実践のなかで一定の正当性を獲得していた。たとえば、ソーシャルワーカーの専門職領域では、ワーカーと利用者との対等な関係の形成という観点から、1950年代末にはすでに利用者との協働が提唱されていた[201]。さらに、1960年代に台頭した消費者運動と、それに対応する消費者保護政策の展開も、政府がサービス利用者との合意や契約を重視するようになる背景となった[202]。消費者問題は一般に私企業の商品やサービスを対象として論じられていたが、「低所得層」の消費者保護という視点に立てば、ケースワークをはじめとする社会サービスも検討対象に含まれ得る。このように、低所得者の消費者主権を保障するという観点、さらには行政に対する訴訟リスクの回避という実務的要請から鑑みれば、サービス利用者との合意・契約の制度化は政府にとっても合理的な選択であったと考えられる[202]。
1973年リハビリテーション法504条施行規則の制定要求
編集リハビリテーション法第504条は、アメリカにおいて障害を理由とする差別を禁止した最初期の連邦規定として位置づけられるが、その制定過程においては当初から大きな注目を集めていたわけではなかった[203]。同条項は、障害当事者運動や政治家の主導によって導入されたものではなく、1973年法案の作成実務を担っていた民主党上院議員スタッフらによって、法案作成の終盤になって挿入されたものである[203][46]。1973年リハビリテーション法はもともと職業リハビリテーション施策の拡充を目的とするものであったが、職業訓練を終えて労働能力を身につけた障害者が雇用上の偏見によって就職できない可能性があるとの懸念から、連邦政府、および連邦資金を受ける事業者に対する差別禁止規定が検討され、その一環として504条が盛り込まれた。
当時、条項の起草に関わった関係者の念頭にあった「差別」は、主として雇用主や教育機関等による偏見的態度であり、建築物等の物理的障壁の除去まではほとんど想定されていなかったとされる[48]。また、504条は議会においてほとんど議論されることなく成立し、必要な財政措置についての検討もなされなかったことから、制定当初は経済的コストを伴わない偏見対策として理解されていたと考えられる[48]。
法制定時にはほとんど注目されなかった第504条であるが、1970年代半ばにその施行規則の策定段階に至ると、まず政府内部で論争が生じ、続いて障害者団体と政府との対立が表面化した。その過程で、同条をめぐる問題は広く社会の注目を集めることとなった[204]。504条施行規則の最初の草案は、フォード政権下の保健教育福祉省長官・キャスパー・ワインバーガーが1975年7月に辞任する以前にはすでに完成していたとされる[205]。しかし、後任のフォレスト・デイヴィッド・マシューズは同規則に対して消極的であり、所管を法務省に移すことを検討していた[206]。翌1976年3月、保健教育福祉省が担当する方針を固めて規則案を公表したものの、これを契機に議会や関係者の関心が高まり、実施に伴うコスト負担への懸念や、「障害者」の範囲に薬物・アルコール依存症者を含めるべきかといった論点が提起された[206]。施行規則案が政治問題化したことを受け、マシューズは発効を見送り、全国で公聴会を開催したうえで再検討する方針を採った[206]。
1975年頃から1977年には、この504条の施行規則の制定を求める全米規模の抗議行動が展開された[205]。アメリカにおける狭義の障害者権利運動(disability rights movement)とは、この504条施行規則の制定をめぐって障害当事者を中心に行われた政治活動のことを指す[205]。
この運動の中心となったのは、1974年に設立された全米障害者市民連合(ACCD;American Coalition of Citizens with Disabilities)であった[205]。ACCD設立の背景には、フォード政権が1974年に「障害者問題に関する大統領府会議(White House Conference on Handicapped Individuals)」を設置したものの、障害者の権利問題に本格的に取り組もうとしなかったことに対し、障害当事者団体の不満が高まっていたという事情があった[205]。ACCDは、全国規模の障害当事者団体であると同時に、障害種別を超えた全米組織でもあった。組織構成が地域や障害種別に限定されず、主要な構成員が障害当事者自身であった点において、それまでの障害関連団体とは異なる独自の特徴を有していた[205]。ACCDは障害者権利運動において、政府や障害者団体との交渉役を担った[205]。対してマスメディアや一般世論に向けてのスポークスパーソン的役割を担った人物はジュディス・ヒューマンであった[207]。ニューヨーク市教育委員会は1972年、火災発生時に生徒たちを避難させる能力がないという理由から、車椅子ユーザーであるヒューマンに教員免許を与えることを拒否した。ヒューマンは訴訟を通じて教育委員会と和解し、小学校教員として働き始めたが、この事件をきっかけに多くの障害者や支援者からの手紙を受け取るようになり、やがて運動団体行動する障害者(DIA:Disabled in Action)を組織した[207]。ヒューマンおよびDIAは、1973年リハビリテーション法に対し拒否権を行使したニクソン大統領に対する抗議運動を主導した[208][209][210]。
1977年春には、1973年リハビリテーション法504条の施行規則制定を求め、保健教育福祉省に対する抗議運動が全国的に展開された。この運動はアメリカにおける障害当事者の直接行動のピークとされている[211]。4月5日にはワシントンの保健教育福祉省庁舎と全国10か所の保健福祉省地方事務所において障害者による座り込みデモが行われた[206]。ワシントン庁舎にはおよそ300人の障害者が集まり、翌日の朝まで座り込みが続いた[206]。その他の地方事務所の座り込みは4月5日で終了したが、ジュディス・ヒューマンの主導したサンフランシスコ事務所での座り込みは、4月28日まで計26日間にわたり継続された[208][209][210][212]。1977年春に保健教育福祉省に対して全国的に展開された抗議運動は、こうした1970年代の直接的な抗議運動の多くは、明確に1960年代の公民権運動をモデルとしていた。たとえばプラカードにはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの言葉"I Have a Dream"が書かれ、デモや座り込みでは"We Shall Overcome"や"We Shall Not be Moved"といった公民権運動時代の愛唱歌が歌われたほか、ジャスティン・ダート・ジュニアをはじめとする当時の障害者運動のリーダーの多くが60年代の公民権運動、学生運動、女性運動の影響を強く受けていた[213][52]。当時の保健教育福祉省長官ジョセフ・アンソニー・カリファノは、1977年4月28日に、504条発効規則に署名した。
障害を持つアメリカ人法(ADA)
編集1980年代初頭における障害者の公民権の状況
編集504条施行規則が発効すると、障害者へのアクセス配慮の費用対効果をめぐる議論が行われるようになる[214]。もっとも、この問題は施行規則の策定過程においてすでに提起されていた。しかし、伝統的に公民権問題は経済的配慮とは別次元の問題と考えられていたため、障害差別の解消に伴う費用対効果が経済官僚によって分析されることはなく、施行規則の策定は公民権法を専門とする法務官僚に委ねられた[214]。その結果、この問題は「合理的配慮(reasonable accommodation)」という法的概念によって一定の整理が図られたものの、その解釈には幅が残されたため、施行規則発効後もアクセス配慮の費用対効果をめぐる議論は継続することとなった[214]。
また、第504条の公民権原理を公共政策にどこまで具体化するかという点をめぐっても、論争が生じた。とりわけ公共交通政策の分野では、障害者の交通アクセスをどのような形で保障するかをめぐり、大きな対立が見られた。
アメリカの障害者交通政策をめぐっては、「メインストリーム」と「パラトランジット」という二つの方向性が議論されてきた[215]。メインストリームとは、路線バスや地下鉄などの大量輸送交通機関をアクセシブル化し、障害者が一般利用者と同様に利用できるようにするという考え方であり、具体的にはバスへのリフト設置や地下鉄へのエレベーター整備などが含まれる。自立生活運動の活動家の多くはこの立場を支持しており、とくにカリフォルニア州など西部地域では行政もメインストリーム化を志向した交通政策を進めてきた[215]。これに対しパラトランジットとは、主として障害者や高齢者を対象としたドア・ツー・ドア型の特別輸送サービスを指し、いわば特別輸送サービスの一形態である[215]。カリフォルニア等の温暖な地域と対照的に積雪の多い地域では、このパラトランジットを中心にせざるを得ないという事情も存在した[215]。アメリカは、このメインストリーム化とパラトランジット化をめぐる論争によって大きく揺れ動いた国であった[215]。
1973年リハビリテーション法504条、ないし1970年に改正された都市大量輸送交通法[注釈 12] (en:Urban Mass Transportation Act of 1970) を受けて、アメリカ合衆国運輸省は1979年、504条項に基づいた条例を制定した[217]。同条例は、障害者が利用可能な公共交通の基準を明確化するとともに、交通計画への障害者自身の参加を求め、各地域の基幹交通網を障害者にも利用可能なものとするための猶予期間を10年と定めた[217]。しかし、この規則に対しては、米国公共交通協会 (APTA)をはじめとする多くの交通関係機関から強い反発が起こり、とりわけバスのアクセシビリティ確保に関する規定に対して反対が集中した。1981年、連邦控訴裁判所は、運輸省の1979年規則は第504条によって与えられた権限を超えていると判断し、障害者向け交通サービスの整備は各地方自治体の裁量に委ねるべきであるとの判決を下した[217]。これを受けて運輸省は、同年7月に暫定規則を制定し、各自治体が障害者向け交通施策を自主的に選択できるようにするとともに、障害者のための特別輸送サービスの必要性を認めた[217]。1986年の規則では、たとえばバスの障害者利用対策について、一般バスのアクセシビリティ向上(リフト付き車両の導入)を図る方式(メインストリーム化のアプローチ)、ドア・ツー・ドア型の特別輸送サービスを提供する方式(パラトランジットでの対応)、またはその両者を組み合わせる方式のいずれかを、バス事業者が採用すべきことが求められた[217][218]。この措置は障害者の交通アクセスの改善という点では一定の前進と評価されるものの、一般バスのアクセシビリティ化を必ずしも義務づけないものであったため、依然として大きな制約を残す制度であったと指摘されている[217]。
さらに1984年には、公民権関連法の適用範囲を制限する重要な司法判断が示された。1984年2月28日、合衆国最高裁判所は Grove City College v. Bell 判決において、マイノリティ、女性、障害者、高齢者などを保護する公民権関連法令の適用範囲を限定的に解釈する判決を下した。従来、これらの法令は連邦資金の援助を受ける機関全体の事業に対して差別を禁止するものと理解されていたが、同判決は、差別禁止規定が適用されるのは連邦資金を直接受けている特定の事業に限られると判断した[219]。その結果、同一の機関内部であっても、連邦資金を直接受ける部局には差別禁止義務が課される一方、それ以外の部局は規制の対象外となるという状況が生じた[220]。
この判決の影響は、第504条に基づく障害者差別訴訟にも及んだ。たとえば航空会社による差別を理由とする訴訟では、当該航空路線が連邦補助を受けていないことを理由に請求が却下された事例がある[220]。また、てんかん発作を理由に解雇された教師が不当解雇を訴えた事案でも、所属機関全体が連邦資金の援助を受けていたにもかかわらず、当該教育部門が直接の補助対象ではなかったことを理由に訴訟継続が認められないという事態が生じた[220]。これらの判決は、第504条を含む公民権法令の適用範囲を大きく制約するものとして受け止められた。
1980年代初頭の障害者運動は、公民権法に障害者を含める法改正を求めて活動していたが、1984年までにその実現には至らなかった[221][注釈 13]。そのため、障害者の権利を公民権法に準じた形で制度化する新たな政治戦略が課題となった。この過程では、企業側が法的義務の拡大に反対したほか、黒人や女性、ヒスパニックなど従来の公民権運動の担い手の一部からも、障害者を対象に加えることで公民権法の効力が弱まるのではないかという懸念が示された[222]。こうした状況のなかで、障害者運動は当事者のニーズを再確認する取り組みを行い、ジャスティン・ダート・ジュニアが全米各地を訪問して集会を開き、障害者や家族の意見を収集した[222]。その結果、住宅や移動、雇用など多様な課題が挙げられたものの、共通して求められていたのは「公民権」と「平等な機会」であることが明らかになった[222]。これらの調査結果は、後の障害者権利立法の形成に重要な基礎を与えた。
レーガン政権による504条規制緩和への対抗
編集1981年にロナルド・レーガンが大統領に選出されて共和党が政権を握ると、リハビリテーション法の差別禁止条項が自由な経済活動を阻害するという懸念から504条施行規則の見直しが図られた[214]。レーガンは副大統領のブッシュに命じて、504条施行規則を見直す特別チームを編成させた[214]。このため1980年代の障害者権利運動にとっては、1970年代に獲得した権利を守ることが目標となった。1981年9月には、レーガン政権による504条の規制緩和を阻止するために、障害者の権利と教育擁護基金 (DREDF: Disability Rights Education and Defense Fund)がワシントン事務所を開設した[214]。
このような政治状況のもとで、副大統領ブッシュとの接点を築いていったのが、消費者運動家ラルフ・ネーダーがワシントンに設立した障害者権利センター(Disability Rights Center: DRC)で活動していたエヴァン・ケンプであった。ケンプは神経筋疾患による障害当事者であり、弁護士資格を取得したものの、障害を理由として民間の法律事務所への就職を拒まれ、連邦政府職員となった経歴を持つ[223][224]。さらに米国証券取引委員会(SEC)在職中にも昇進差別を受け、1974年には同委員会を相手取って提訴した経験を有していた[223][224]。1981年、DRC代表としてブッシュの規制緩和委員会に出席したケンプは、障害者権利運動は政府への依存を拡大するものではなく、「依存からの自立 (independence) 」を目標とする運動であるとの主張を展開した。また、父権主義的な福祉国家や肥大化した官僚制への批判という点において、レーガン政権の掲げる小さな政府志向と接点を持ちうることを強調した。こうした主張はブッシュの理解を得ることとなり、ケンプは1983年末頃から障害者政策に関して副大統領に助言する立場を担うようになった[225]。
レーガン政権は504条施行規則の見直しに着手した[225][226]。しかし、福祉への依存をもたらさない共和党色のある福祉政策理念を求めていたことや、下院議会では民主党に過半数を握られていた等の事情により、レーガン政権はしだいに「障害者の公民権(disability rights)」と「依存からの自立(independenxe)」を政策理念とするようになる[225]。この政策プロセスを担ったのは、障害者権利運動に共感を示す共和党支持者たちであった。レーガンと大統領指名候補を争った共和党上院議員のローウェル・ウィッカーは、「障害児の親」として障害者の公民権に関心を持っていた[225]。レーガンから障害者に関する国家委員会(NCH:National Council on the Handicapped)の委員長に任命されたサンドラ・パリノ(Sandra Parrino)も、同様に「障害者の親」であった。レーガン政権に近い障害当事者運動家としては、1974年以来テキサス州で障害者権利運動を行い、NCHの副委員長に任命されたジャスティン・ダート・ジュニアが挙げられる[225]。ジャスティン・ダート・ジュニアの父親は、カリフォルニア時代からレーガンと親交があった[225]。
NCHは、公民権型の新しい障害政策理念を示した報告書『障害をもつ人のための基本方針(National Policy for Persons with Disabilities)』を1984年に公表した[225]。自立生活運動家のマイケル・ウィンター (Michael Winter) によれば、この報告書の文章は、1983年にジャスティン・ダート・ジュニアが書いたものである[227]。
その後、NCH事務局長のレックス・フリーデンと、NCHの研究スタッフであったロバート・バーグドフ(Robert Burgdorf)は、1986年のNCH報告書『自立へ向かって:-障害者に関する政府の法律・事業の評価及び立法上の勧告(Toward Independence: An Assessment of Federal Laws and Programs Affecting Persons with Disabilities--With Legislative Recommendations)』において、障害者の社会参加や雇用を妨げている主要因は差別であり、障害者のための包括的機会均等法を制定する必要があると主張した[228][229]。同報告書は、機会均等法、雇用、交通、住宅、個別的援助など障害者の人権保障に関わる主要な10分野について現状と課題を分析し、従来の障害者公民権法体系(1973年リハビリテーション法504条中心)は適用範囲が限定的である点を問題視した[230]。人種や性別などを理由とする差別を禁じる1964年公民権法に比べ、州間商業活動、大衆宿泊施設、住宅事業、民間企業の雇用など多くの領域が障害差別禁止法令の対象外となっており、人権保護法としての目的を十分に果たしていないとされたため、より広い適用範囲と明確で一貫した執行基準を備えた包括的な機会均等法の制定が提案された[230]。
ADAの起草過程では、1973年リハビリテーション法504条の運用経験が重要な参照点となった[231]。とくに、障害を理由とする差別を禁止する際の基本的枠組みとして、障害者が能力を発揮し社会参加する機会を確保するための「合理的配慮」(reasonable accommodation)と、その提供義務の限界を定める「重大な支障」(undue hardship)という概念が、504条における制度設計を踏まえて採用されたとされる[231]。504条は、連邦資金を受ける機関に対して障害者差別を禁じる規定であり、その運用の中で、障害者が職務や教育などの機会に実質的に参加できるようにするための環境調整を求める法理が形成されていた。フリーデンは、ADAがこのような先行する差別禁止法制の経験を踏まえ、合理的配慮を差別禁止の具体的内容として位置づけるとともに、配慮の提供が事業運営に過度の負担をもたらす場合には義務が免除され得るという「重大な支障」の概念を併置することで、障害者の機会保障と事業者の負担との均衡を図る制度構造を整備したと説明している[231]。
バーグドフによって作成された最初のADA法案は1988年4月、共和党上院議員のウィッカーによって、第100回議会に提出された[232][233]。しかし、この法案は十分な審議が行われないまま議会会期が終了し、大統領選挙の時期を迎えることとなった[233]。そこで障害者団体は1988年の大統領選挙において、共和党候補のジョージ・H・W・ブッシュと民主党候補のマイケル・デュカキスの双方に対し、ADA法案への署名を公約として掲げるよう働きかけた[234]。ブッシュ陣営のアドバイザーであったケンプは、ADA支持を明確にすることが選挙戦で有利に働く可能性があると助言し、ブッシュはADAへの署名を公約として表明した[235]。デュカキスも後に同様の立場を示し[235]、結果として両候補がADA支持を表明する状況が生まれた。
1989年にブッシュ政権が成立すると、上下両院で多数を占めていた民主党議員、とりわけトム・ハーキン、エドワード・ケネディ、トニー・コエーリョらが法案に深く関与するようになった[233]。同時に、障害者権利運動側でも民主党に近い運動家パトリシア・ライトらがワシントンでのロビー活動を展開し、議会との連携を強めた[233]。ライトらは、バーグドフによる初期案よりも雇用主や事業者に譲歩した修正案を作成し、1989年5月に議会へ提出した[233]。
一方、ブッシュ政権の側でも、障害者雇用問題大統領委員会委員長に任命されたジャスティン・ダート・ジュニアや、雇用機会均等委員会 (EEOC) 委員長となったエヴァン・ケンプらが法制定を後押しした[233]。こうした議会側と行政府側の双方の関与のもとで法案の調整が進められ、ADA法案は民主党・共和党の超党派的支持を得て1990年5月に議会を通過し、同年7月26日にジョージ・H・W・ブッシュ大統領の署名によって成立した[233]。
アメリカ社会モデルの理論
編集こうした差別禁止法制の展開と並行して、アメリカでは、障害を専門家支配や健康至上主義との関係の中で捉え直す理論化も進められた。ただし、マイク・オリバーという中心的理論家を擁し、その理論的影響の系譜を比較的明確にたどることのできるイギリス障害学と異なり、アメリカ障害学には理論的統一性がそれほど見られない[51]。また、アメリカにおける主要な障害者運動である自立生活運動とアメリカ障害学との理論的関係も、必ずしも明確ではないと指摘されている[236]。この点においても、当事者団体隔離に反対する身体障害者連盟(UPIAS)がイギリス障害学の理論形成に明確な影響を与えたとされるイギリスの場合とは対照的である[237]。
| 唯物論materialist | 観念論idealist | |
|---|---|---|
| 個人モデル individual | ポジション⑴ 唯物論的個人モデル 障害とは、物質としての個人(身体)の機能に対する生物的作用の物質的産物 分析対象はインペアメントのある身体 | ポジション⑵ 観念論的個人モデル 障害とは、役割獲得とアイデンティティの形成に関与する自発的個人的行為の産物 分析対象は信念やアイデンティティ |
| 社会モデル social | ポジション⑶ 唯物論的社会モデル social creationist models 障害とは、特定の歴史的文脈において発展した社会経済関係の産物 分析対象は無力化する障壁や権力の物的関係 | ポジション⑷ 観念論的社会モデル social constructionist models 障害とは、特定の文化的文脈における社会的発展の観念的産物 分析対象は文化的価値や表象 |
杉野昭博は、障害理解を、「唯物論」と「観念論」という軸と、個人モデルと社会モデルという軸とを掛け合わせた四次元図式として提示したマーク・プリーストリー (Mark Priestley) の論文 "Constructions and Creations: idealism, materialism and disability theory" を踏まえ、これを整理している。そこでは、社会モデルは単一の立場ではなく、社会経済的関係や制度的障壁に着目する唯物論的社会モデルと、文化的価値や偏見といった表象に着目する観念論的社会モデルという二つの方向を内包するものとして理解される[239]。
さらに杉野は、この区別を英米の障害学の差異の整理にも用い、イギリス障害学が主として政治経済的要因に重点を置くのに対し、アメリカ障害学は社会意識や偏見の分析に重点を置く傾向があるとしつつも、両者の差異はあくまで分析の焦点の違いにすぎず、いずれも障害を社会の側に位置づける社会モデルの枠内にあると論じている[240]。
また杉野は、障害の「個人的経験」についても、それが語られることを通じて社会的に共有される以上、社会モデルの射程に含まれるとし、制度的障壁の除去はそうした経験の社会的表現を可能にする条件であると位置づけている[241]。
障害の人権モデル
編集2006年に国際連合で障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)(CRPD; Convention on the Rights of Persons with Disabilities)が採択されて以降、使用例が急速に拡大しているのが障害の人権モデルという用語である[242]。
日本では、障害を個人の機能障害に還元する「個人モデル(医療モデル)」と、社会的障壁に着目する「社会モデル」とを対比して論じることが多い[243]。一方、国連障害者権利委員会は、障害者権利条約に関する総括所見などにおいて、「障害の治療モデル」と「障害の人権モデル」を対比して用いている[243][244]。たとえば、2022年の日本政府報告に対する総括所見では、「障害の社会モデル」という語は用いられていない一方で、「障害の人権モデル」という語が繰り返し使用されている[243]。こうした用語法は日本に対する審査に限られず、他国に対する総括所見でも確認される[243]。
国際連合人権高等弁務官事務所(OHCHR)が2002年に刊行した『Human Rights and Disability: The Current Use and Future Potential of Human Rights Instruments in the Context of Disability』([ST/]HR/PUB/02/1)では、「人権モデル」が以下のように説明されている。
Human dignity is the anchor norm of human rights. Each individual is deemed to be of inestimable value and nobody is insignificant. People are to be valued not just because they are economically or otherwise useful but because of their inherent self-worth...The human rights model focuses on the inherent dignity of the human being and subsequently, but only if necessary, on the person’s medical characteristics. It places the individual centre stage in all decisions affecting him/her and, most importantly, locates the main‘problem’ outside the person and in society. [245]
人間の尊厳は人権の基礎規範である。すべての個人は計り知れない価値を有する存在とみなされ、取るに足らない人間など存在しない。人は、経済的あるいはその他の意味で有用であるから価値があるのではなく、その人に内在する生来の価値ゆえに尊重されるべきである。……人権モデルは、人間に固有の尊厳に焦点を当て、そしてその後に、必要な場合に限って、その人の医学的特徴に着目する。このモデルは、本人に影響を及ぼすすべての意思決定において個人を中心に据えるとともに、最も重要な点として、「問題」の主たる所在を個人の外部、すなわち社会の側に求める。
この説明は、障害に関する問題の主因を個人ではなく社会的要因に求める点では、人権モデルと社会モデルとの類似性を強調するものである[242]。アメリカの法学者であるアーリーン・カンターは、「人権モデル」に関する記述の注釈において「このモデル(人権モデル)は、障害の社会的構築、あるいは社会モデルとも呼ばれる(This model may also be referred to as the social construction or social model of disability.)」と説明しており[246]、「人権モデル」と「社会モデル」を同義語として用いている[242]。しかし一方で、人権モデルが社会モデルからの逸脱として論じられるなど、両者が対照的なモデルとして提示されることもある[242]。
人権モデルを「社会モデルの発展形」であるとする説
編集テレジア・デグナーは、障害者権利条約が、障害の社会モデルに代わるものとして「障害の人権モデル」を提示していると論じている。デグナーは、「人権モデル」を「障害の社会モデルが進歩したもの」「CRPD(障害者権利条約)を実行するツール」であると位置づけている[247][248]。デグナーによれば、障害者権利条約(CRPD)はしばしば医学モデルから社会モデルへの転換を象徴する文書として理解される[249]。しかし彼女は、条約交渉において社会モデルが中心的な参照パラダイムであったことを認めながらも、CRPD自体は社会モデルにとどまらず、それを超える「障害の人権モデル」を制度化したものと位置づけている[249]。
デグナーは、障害の社会モデルと人権モデルの相違点として、以下の6つの命題(proposition)を提示している[249]。
- 命題1;障害(Disability)は社会的構築物であるが、人権は特定の健康状態や身体状態を要求するものではない[249]
デグナーによれば、社会モデルは障害を社会的抑圧や排除の結果として説明する理論であり、障害者差別の構造を分析する有力な枠組みである[249]。しかし、それ自体は障害政策の基礎となる道徳的原理や価値を提示するものではない[250]。一方、人権モデルは、障害者権利条約(CRPD)が掲げる人間の尊厳と普遍的人権の理念に基づき、障害者がインペアメントの有無や程度にかかわらず権利主体であることを根拠づける[251]。人権は出生によって無条件に付与される普遍的な権利であり、特定の健康状態や身体機能を前提としないため、人権モデルは「インペアメントがあることで人権主体性が損なわれる」という考え方に反論できるとデグナーは論じている[251]。
- 命題2;人権は差別禁止にとどまらない[251]
デグナーは、障害の社会モデルが差別禁止法や公民権改革を理論的に支えてきたことを認めつつも、それだけでは障害者の権利保障としては不十分であると論じている[247][248][252]。デグナーによれば、差別や社会的障壁の除去は重要であるものの、障害者には教育、雇用、住居、文化的参加などに関わる経済的・社会的・文化的権利も必要であり、とりわけインペアメントに起因する支援ニーズへの対応が求められる[247][248][252]。経済的、社会的および⽂化的権利は、市⺠的および政治的権利に比べて長らく軽視されてきたが、2012年には経済的、社会的および⽂化的権利のための個⼈通報制度が発効される[247][248][252]など、近年では両者は対等になりつつある。デグナーは、障害者権利条約を「両⽅の⼈権の不可分性と相互依存性の好例[248]」と評しており、障害の人権モデルは市民的・政治的権利のみならず、経済的・社会的・文化的権利をも包含する、より包括的な枠組みであると述べている[247][248][252]。
- 命題3;インペアメントは人間の多様性として認識されるべきである[253]
デグナーは、障害の社会モデルが、障害者がインペアメントに起因する痛みや生活の質の低下、早期死亡などに直面しうる事実を十分に考慮していないのに対し、障害の人権モデルは、社会正義の理論を構築するにあたり、そのような生活状況を認識し考慮することを求めていると述べている[247][248]。また、人権モデルは社会モデルとは異なり、インペアメントを人間の多様性の一部として積極的に評価する立場をとっていると主張している[247][248]。
- 命題4;複合差別と重層的なアイデンティティを承認すべきである[254]
デグナーは、障害の社会モデルが障害化の原因を社会的な権力関係に求める一方で、アイデンティティ・ポリティクスや複合差別(multiple discrimination)への関心が限定的であったと指摘している[254]。彼女によれば、社会モデルは障害者の解放における重要な課題として性差別や人種差別など他の抑圧体系の存在を認識してはいたものの、障害に加えて性別、人種、性的指向、年齢、宗教などが重なり合う多層的なアイデンティティや、それに伴う差別経験を十分に扱うことを意図していなかった[254]。
これに対し、デグナーは障害の人権モデルについて、人権法の発展過程そのものが女性運動、人種差別撤廃運動、障害者運動などのアイデンティティに基づく社会運動の成果であり、多様な差異と集団的経験を承認する枠組みであると論じている[255]。デグナーは、人権モデルは障害者が女性、子ども、移民、民族的少数者など複数の属性を併せ持つ存在であることを認め、差別が複数の要因の交差によって生じうることを考慮する点に特徴があると述べる[256]。
さらにデグナーは、障害者権利条約はこうした視点を制度化したものであると位置づけている[256]。とりわけ女性障害者に関する第6条は、「障害のある女性及び女子が複合差別を受けていること」を明示しており、デグナーはこれを、人権条約(human rights treaty)における最初の拘束力を有するインターセクショナリティ条項であると評価している[256]。また、条約は障害児やろう者、盲ろう者などの固有の文化的・教育的ニーズにも言及しており、人権モデルは障害者内部の多様性や重層的なアイデンティティを承認する枠組みであると論じている[256]。
- 命題5:予防政策は人権に配慮したものでありうる[257]
デグナーは、障害の社会モデルが障害予防政策に対して批判的であったのに対し、障害の人権モデルは、そのような政策が障害者の人権を尊重するものであるかどうかを評価するための枠組みを提供すると論じている。社会モデルの論者は、一部の障害予防政策について、障害を避けるべき不幸として描いたり、障害のある人の生を否定的に表象したりすることで、障害者に対する偏見や差別を助長してきたと批判している[注釈 14][257]。これに対しデグナーは、障害予防政策それ自体を一律に否定する必要はないと主張する[259]。障害者は一般に健康状態が悪化しやすく、二次障害や追加的な健康上の問題を抱える危険性も高いため、予防的な保健医療サービスを必要としている場合が少なくない[259][260]。障害者権利条約(CRPD)第25条も、障害者が差別なく医療サービスを利用できる権利を保障するとともに、さらなる障害を予防するための保健サービスへのアクセスを求めている[259]。
デグナーは、この立場を支持するものとして、2011年版のWHO世界障害報告書を引用している。同報告書によれば、人権モデルの観点から重要なのは予防政策の有無ではなく、その内容と実施方法である[261]。予防政策は障害者の尊厳と権利を尊重する形で実施されなければならず、障害者を否定的な存在として描いたり、その存在価値を損なったりしてはならない[261]。また、障害の予防は、障害を生み出す社会的障壁の除去だけでなく、基礎疾患の予防や治療も含む多面的な取り組みとして理解されるべきであるとされる[261]。デグナーはこうしたWHOの見解を踏まえ、人権モデルは障害予防を障害者の排除や選別の手段としてではなく、障害者を含むすべての人の健康と権利を保障するための政策として評価する枠組みを提供すると論じている[259]。
- 命題6:貧困と障害は相互に関連しているが、変革へのロードマップが存在する[259]
デグナーは、障害の社会モデルが障害と貧困の相互関連性を説明してきたのに対し、人権モデルはその状況を変革するための「道筋(roadmap for change)」を提供すると論じている[259]。デグナーは、障害の社会モデルが障害と貧困との密接な関連を明らかにし、障害を開発の課題として理解する上で重要な役割を果たしたと評価する[262]一方で、人権モデルは貧困や社会的排除の解消に向けた変革の道筋を提供すると論じている。デグナーによれば、国連や世界銀行は以前から障害を開発課題として認識していたものの、障害は開発政策の主流には十分に組み込まれていなかった[262]。しかし、障害者権利条約(CRPD)の採択後、障害は国際開発協力政策の中心的課題の一つとして位置づけられるようになった[262]。
デグナーによれば、CRPDは開発に関する独立した規定を設けた最初の人権条約である[262]。人権に基づく開発アプローチでは、貧困の中で暮らす人々は福祉や慈善の受け手ではなく、自らの権利を有する主体として位置づけられる[262]。また、資源配分やニーズ評価への参加、エンパワメント、社会的に不利な立場に置かれた集団への重点的な支援が重視される[262]。デグナーは、こうした人権に基づく開発アプローチや障害の主流化(disability mainstreaming)を、障害者の貧困や社会的排除を克服し、社会正義の実現を目指すための重要な方策として評価している[262]。
人権モデルと社会モデルは相補的であるとする説
編集一方、人権モデルは社会モデルの改善・発展形であるとするデグナーの主張を批判したアンナ・ローソンとアンガラッド・E・ベケット(Anna Lawson & Angharad E. Beckett)は、障害の社会モデルは「障害の記述的・発見的モデル(a descriptive and heuristic model of disability)」である[263]のに対して、障害の人権モデルは「障害政策の規範的モデル(a prescriptive model of disability policy)」であり[264]、両者は補完関係にあると論じた。彼女らによれば、UPIAS/DPIに由来する社会モデルは障害(disability)を説明するための「障害のモデル(a model of disability)」であるのに対し、人権モデルは障害者権利条約(CRPD)を中心とする法制度や政策のあり方を示す「障害政策のモデル(a model of disability policy)」であり[264]、両者は競合する理論というよりも異なる役割を担う相補的な枠組みである[265]。
ローソンとベケットは、デグナーが社会モデルと人権モデルの違いとして提示した6つの命題を検討した上で、その多くは社会モデルと人権モデルの本質的な相違を示すものではないと論じている。ローソンとベケットは、UPIAS/DPIによる社会モデルの主題は「障害(disability)」そのものであり、このモデルは障害化(disablement)の過程を説明するとともに、障害を社会的抑圧の一形態として捉えることで、障害概念の理論的枠組みを提供していると論じている[266]。また、同モデルは、インペアメントのある人々を障害者たらしめる要因を個人の外部に求め、それらを特定するための発見的な枠組みを提供するため、社会変革を目指す運動の理論的基盤となりうるとしている[264]。ローソンとベケットは、社会モデルを「障害政策のモデル」ではなく「障害のモデル」であると位置づけており、社会モデルは障害に関する法律や政策の詳細な設計図を提示するものではなく、むしろ既存の法制度や政策、その他の社会構造を批判的に検討し、その方向性を問い直すための道具として機能すると論じている[264]。また、詳細な政策指針を示さないことは、各地域の文脈やニーズ、状況に応じて柔軟に適用できるという利点にもつながるとしている[264]。
対して人権モデルの焦点は、障害概念そのものではなく、障害に対する政策的対応にあると、ローソンとベケットは論じている[264]。彼女らによれば、人権モデルは障害の明確なオントロジーを提示するものではなく、障害とは何かを説明する理論というよりも、障害に関する政策や法制度がいかにあるべきかについての指針を示す規範的枠組みである[264]。そのため、人権モデルは「障害のモデル」ではなく「障害政策のモデル」とみなすことができるという[264]。ローソンとベケットは、人権モデルの特徴は、障害者の社会的正義を実現するために「何をなすべきか」という問いに答えようとする点にあると指摘しており[267]、その答えは、「障害者権利条約が定める人権原則および国家の義務に沿って、障害政策や法制度の改革を進めるべきである」という規範的要請として示されていると論じている[267]。
またローソンとベケットは、社会モデルがインペアメントを軽視しているというデグナーの主張に対し、UPIAS/DPIによる社会モデルはインペアメントの存在を前提としており、その意義もその認識の上に成り立つと指摘している[268]。また、社会モデルは社会変革に焦点を当てるものの、変革を実効的なものとするためには多様なインペアメントとその影響やニーズを考慮する必要があるため、人権モデルがインペアメントの影響を認識し、社会正義の理論においてそれらを考慮することを求めるというデグナーの指摘は、社会モデルにも同様に当てはまると主張している[268]。さらに、デグナーが人権モデルの特徴として挙げた「インペアメントを人間の多様性の一部として評価する」という点についても、インペアメントの概念は社会モデルの中心的要素であり、インペアメントのある人々を適切に評価することを前提として社会変革を目指すという意味で、UPIAS/DPIによる社会モデルにも当てはまると論じている。ローソンとベケットはそのうえで、デグナーが提示した社会モデルと人権モデルとの相違は比較的小さなものであるとの見解を示している[269]。
その一方で、ローソンとベケットは、デグナーの第1命題および第6命題については両モデルの違いを示すものとして認めている[268]。彼女らによれば、社会モデルはインペアメントを有する人々の障害化の過程(process of disablement)を説明することを主な目的とするのに対し、人権モデルはCRPDを法典化し、障害政策や法制度改革のための規範的な指針を提供するものである[264]。しかし、この違いは社会モデルが人権モデルによって置き換えられるべきことを意味するのではなく、両者が異なる機能を担っていることを示すものにすぎないとされる。
ローソンとベケットによれば、人権モデルは障害者の権利を保障するための法制度や政策の形成、ならびにそれらを監督する国内外の仕組みを支える枠組みとして機能する[270]。一方、社会モデルはより開かれた性格を持ち、人権法や障害政策に限定されない広範な障害者解放の政治と結びつく。したがって、社会モデルは人権モデルよりも適用範囲が広く、人権という言語や制度が十分に機能しない文脈においても、障害者が障害化を生み出す社会構造や慣行に異議を唱えるための理論的資源となりうるとしている[270]。
ローソンとベケットは、両モデルは対立関係にあるのではなく、人権モデルの機能が社会モデルに依存するという意味で相補的な関係にあると論じている[270]。CRPDおよび人権モデルは、障害者団体が政策形成や意思決定に参加することを重視しているが、多様なインペアメントを有する人々を結集し、共通の障害者としての連帯を形成する役割を果たしてきたのは社会モデルであるとされる[270]。彼女らによれば、社会モデルは異なる種類のインペアメントを有する人々の間に連帯を生み出し、障害者組織や連合組織の形成を可能にしてきた。このような組織は、障害者権利条約の起草過程において重要な役割を果たしただけでなく、条約の実施と監視においても不可欠な主体であるため、人権モデルは社会モデルによって形成された障害者運動の基盤の上に成り立っていると論じている[270]。
The question is whether the social model can underwrite any policy, in any direction. The answer is no: the model suggests causes of disadvantage, but what we do about it is a matter of contested norms.[271]
問題は、社会モデルがいずれの方向のいずれかの政策・方針(ポリシー)を引き受けることができるかどうかである。答えはノーだ。社会モデルは不利益の原因を提唱するが、それに対して私たちが何をするかは、議論のある規範(ノーム)の問題なのである[272]。
川島聡は、「社会モデル」は障害者の不利益の原因として社会的障壁を重視する因果論であり、そこから直接に規範論や政策論まで導き出すことは妥当ではないと論じている[273]。また川島は、個人モデルおよび社会モデルそれ自体は、障害に関する規範モデルには含まれないとしている[274]。川島によれば、障害の規範に関するモデルとは、「障害者の不利益の解消方針(ポリシー)についてのモデル(型・範型)」を意味する[275]。そのうえで川島は、その一つとして「障害の人権モデル」を挙げ、これを「人権(障害者権利条約)による障害者の不利益解消方針についてのモデル」と説明している[275]。
川島は、1990年代以降の障害分野では、差別禁止を通じて障害者というマイノリティの不利益の是正を目指す「差別禁止モデル(マイノリティモデル)」が重視されるようになったと指摘している[275]。その一方で、差別禁止のみでは障害者の不利益を十分に解消できないという限界も早期から認識されており、これを補完するものとして、新しい社会福祉、社会権、社会的正義、分配的正義などを重視する立場が展開されたと述べている[275]。
また川島は、同時期の国際人権法において、市民的・政治的権利(自由権)と経済的・社会的権利(社会権)の不可分性が重視されるようになったことに注目している[275]。そのうえで、「障害問題は人権問題である」という国際的認識の高まりを背景として採択された『障害者権利条約』は、単に差別を禁止するだけでなく、自由権と社会権の双方を障害者に等しく保障することによって不利益の是正を図るものであると位置づけている[275]。そして川島は、このような方針を「障害の人権モデル」と呼んでいる[276]。
1980年代初頭以来、社会モデルは地理的・学問的領域を越えて膨大な文献を生み出してきた[242]。そのため、その概念や用法には多様な解釈が存在し、しばしば相互に矛盾することもある[242]。ローソンとベケットは、「社会モデル」という用語は、論者ごとの定義や理解の差異を明示しないまま使用されることが多く、そのことが概念上の混乱を招いていると指摘している[242]。
批判・展望
編集身体障害以外の障害者にとっての障害学
編集隔離に反対する身体障害者連盟(UPIAS)によって提示されたインペアメントとディスアビリティの明確な区別は、社会モデルの中核的要素の一つであり、その単純明快さゆえに広く受容されてきた。この区別は、障害の困難が個人の身体のみに還元されるものではないことを示し、障害者の経験と強く共鳴する解放的な理解枠組みを提供するものであった。また、こうした理解は、障害の存在、差別経験、自己認識という三要素からなる障害者アイデンティティの形成を促し、政治化された集団的主体の基盤として障害者運動を支えてきた[277]。
しかしながらこの枠組みに対しては、身体障害を中心に構築されてきたものなのではないかとする批判が初期から存在する[277]。すなわちこの枠組みは、UPIASが想定した「身体障害者」の経験に依拠しているため、学習障害者や精神医療のサバイバーといった他の障害カテゴリーの経験、さらにはジェンダー、人種、セクシュアリティ、階級との交差性を十分に捉えきれていないとの批判が提起されてきた[277]。
さらに、より根本的な論点として、インペアメントの位置づけをめぐる問題がある[277]。前述したように、インペアメントとディスアビリティの区別は、障害の社会的側面を明確化する一方で、インペアメントそのものに伴う苦痛や制約といった経験を周縁化する危険を孕むと指摘されてきた。インペアメントは身体化されたものであり、制限的で苦痛や不快を伴いうる「影響」をもつ[277]。さらにインペアメントの経験は、それ自体が社会と無関係ではなく、社会関係や社会構造を通じて媒介されるものである。社会関係や社会構造はしばしばインペアメント経験を優先せず、価値づけもしない。その結果として、インペアメントの影響や帰結が増幅されたり、長期化したりする可能性がある[277]。このような問題意識のもと、障害学においてはインペアメントを射程に含めた理論化も進められてきた。
一方で、インペアメント概念そのものに対する批判も存在する。UPIASによる定義は、インペアメントを身体の欠損や機能不全として捉えるものであるが、このような理解は依然として規範からの逸脱や欠陥という含意を伴う[278]。ダン・グッドリー (Dan Goodley) が指摘するように、インペアメントという語はしばしば「欠如」や「悲劇」といった否定的意味を帯びる[279][278]。そのため、この概念やその表現を拒否する当事者も少なくない。例えば、聴覚障害者の一部は、自らを身体的欠陥の保持者としてではなく、言語的・文化的少数派として位置づける。また、環境が適切に整備されている場合には、自らの状態を活動制限を伴う「障害」とは捉えない人々も存在する。
さらに、インペアメントの経験は一様に否定的なものではなく、そこに価値や積極的側面を見出す立場もある。インペアメントという概念はこの点から、狂気 (madness) との関係において問題含みのものとみなされてきた[278]。多くの者は、「精神障害」という概念や精神的苦痛の病理化を拒否するとともに、福祉給付の根拠や治療その他の支援へのアクセスのために、専門家による分類や「障害 (impairment) 」のラベリングが前提となるような障害者アイデンティティを引き受けることには困難が伴うと指摘している[278]。
また障害学が、知的障害者の生に対して十分に光を当ててこなかったという指摘も存在する。北星学園大学社会福祉学部教授の田中耕一郎は、障害学もまた知的障害者を他者化してきたと指摘する[280]。
田中によれば、知的障害者の他者化は「二重の他者化」として把握されるべきである。すなわち、従来、他者の包摂や救済を掲げてきた哲学・倫理学・社会福祉学といった人権論・規範論の枠組みにおいてもなお、知的障害者は他者として位置づけられてきたとされる[281]。さらに田中は、こうした傾向が障害学においても例外ではないと指摘する。とりわけ、社会モデルの源流とされるUPIASが正会員を身体障害者に限定し、知的障害者や精神障害者を組織的に包摂しなかった点に注目し、その理由が理論構築上の「混乱」を避けるためであったとされることを挙げる[282]。この点について田中は、ジョン・ロールズが『正義論』において知的障害者等を理論構成上の「困難な事例」として周縁化したこととの類似性を指摘する[282]。その上で田中は、身体障害者の共通経験を基盤として形成された社会モデルの枠組みにおいて、知的障害者の経験がいかに把握されうるのか、また知的障害と社会モデルとの関係をめぐる理論的検討が、イギリスおよび日本の障害学において十分に展開されてこなかったと論じている[282]。
社会モデルは、障害者の「できなさ」を個人のインペアメントではなく、社会的に生み出される「無力化(disablement)」として捉え、環境の改善によって能力の発揮が可能になるという解放の図式を前提としているとされる。しかし田中は、この枠組みが、環境の改善後においてもなお「できない」状態に置かれる人々の存在を十分に捉えていないと指摘する[283]。すなわち、社会モデルは結果として、改善された環境のもとで能力を発揮しうる人々と、そうでない人々とのあいだに新たな区分を生み出し、後者を他者化する可能性を孕むとされる[284]。さらに田中は、この点を、一定の能力を前提として平等の実現を構想したロールズの正義論の限界と通底する問題として位置づけ、いずれも人間の多様性への十分な配慮を欠く側面があると論じる。
他方で、社会モデルに関しては、改善の対象となる〈社会〉には物理的環境のみならず他者との関係も含まれるため、関係の変容を通じた包摂の可能性があるとの反論も想定される。すなわち、能力の発揮が困難な場合であっても、「共に在る」関係への包摂によって他者化を回避しうるという立場である(ケアの倫理)[284]。しかし田中は、このような関係に基づく包摂もまた十分ではないと指摘する。田中は、ケアの倫理に見られるような個別的・人称的関係に依拠した包摂は、その成立が偶然性に左右されるため、そうした関係を持ち得ない人々を依然として排除する危険を伴うと述べる[285]。
この点に関連して田中は、知的障害者が関係の外部へと排除されやすい脆弱性を指摘し、優生政策の歴史において彼らが容易に排除・抹消の対象とされてきた背景にも、こうした「関係からの排除」が関与している可能性を示唆する[285]。そのうえで、関係の改善や創出による包摂の必要性を認めつつも、それを平等に実現する方途はなお十分に見出されていないと結論づけている[285]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 作家の三村洋明は、disabled peopleの訳語として「被障害者」を提唱している。[38]
- ^ 東京久留米園は、1962年に認可された救護施設であり、入居者は貧しい重度障害者が中心であった[63]。
- ^ ファイファーによるICIDH批判論文「The ICIDH and the Need for its Revision」は、1998年に『Disability & Society(障害と社会)』第13巻第4号に掲載された。これに対し、次号(同年第13巻第5号)には、WHO改訂チームの4名による連名の反論論文「A Reply to David Pfeiffer 'The ICIDH and the Need for its Revision'」が掲載された。[105]
- ^ すなわち、ICFにおける「インペアメント」は、「心身機能・身体構造が障害された状態」と定義されている。
- ^ ICIDH(国際障害分類)が採択されたのは1980年であるが、ICIDHの公刊自体は1976年に開かれた第29回WHO総会で決定されており、同会の報告書"Reports on specific technical matters: disability prevention and rehabilitation"(書類番号A29/Inf.Doc/1)においてICIDHの原型となるモデルが示されている。
- ^ たとえば、労働市場へのアクセスが不十分であったり、労働市場から排除されたりすること。
- ^ なお、イギリス障害学の主流派の意見は、社会モデルは唯物論的世界観によって統一した見解を取るべきとするものである。[140]
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- ^ 本法の制定を推進したM・ホーク・スミス(M. Hoke Smith)とウィリアム・J・シアーズに因んだ呼び名である[166]
- ^ 原文;any person who, by reason of a physical defect or infirmity, whether congenital or acquired by accident, injury, or disease, is, or may be expected to be, totally or partially incapacitated for remunerative occupation
- ^ ケネディは、実際に大統領に就任してからは外交問題に注力し、貧困政策を重要なアジェンダとしては扱わなかった。「貧困との戦い」が政策として発展したのは、リンドン・ジョンソン政権期である[177]。
- ^ 1964年に初めて制定された都市大量輸送交通法 (Urban Mass Transportation Act) は、赤字に悩む交通事業に対する援助や補助を行う趣旨の法律であった。同法の1970年修正によって障害者対策が明文化され、交通計画・運行上で障害者・高齢者に配慮した「特別の努力 (special effort) 」がはかられるよう定められた。「特別の努力」とは、エレベーターやスロープなどに、障害を配慮した設計等を施すことを意味する[216]。
- ^ 前述の通り、1984年のGrove City College v. Bell 判決は、公民権関連法令の適用範囲を限定的に解釈するものであり、当時の障害者政策をめぐる状況を示す出来事の一つとされる。
- ^ 例えば、安全運転を呼びかける広告に、「残りの人生を不具のまま生きることは死よりもつらい」という見出しを付した四肢麻痺者のポスターが用いられている場合、それは障害者を事故防止のための脅しや抑止の手段として利用していることになる[258]。
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関連項目
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